2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2026.7.15

Translate

2026.7.15

 水曜日。ずっと裾上げをしないといけないと思い棚に入れっぱなしにしていたパンツの裾上げに行く。日本だとどこでもできるような気もするが、この海のある田舎町では、探さないといけないし、言い値であり、また、1週間を待たされる。別に1週間かかるのであれば、受け入れて1週間待つが、日本で1時間で仕上がるものがなぜこの国では1週間かかるのだろうか。一度得たものを捨てて新しい価値観を受け入れるというのはなかなか苦労するものだと、もう3年目になったこの国での暮らしを憂いている。3年の空白のような時間を30代の後半に過ごしているわけだが、本当に自分にとって意味のあることなのだろうか。価値がないことをしていることの価値や、意味のなさの魅力、正しくない弱者の意見の立場に立つ、失敗という大きな後ろ盾、みたいなものを少し脇に置いたとして、20歳くらいから無形物を求めるように、自分の中で形になり始めた有形のものを破壊するような感覚で生きてきたはずだったが、今、暗闇の中の濁流に飲まれたかのような感覚で右も左もましてやそこに出口があるのかすらわからないようなーしかしその中ではっきりと感じているのは確実に死に向かっているという全ての人間の持つ儚さー生活をしているが、家も子供もなく、少しの心の余裕を与えるほどのお金もなく、袋小路のような生活の中で、過ぎ去る日々を誤魔化すように生きてはいないだろうか。無形に憧れながらも、何かを掴むことを目指し掴んだ有形のものを捨てる行為と、有形のものを最初から諦め、曖昧な無形を信じるのでは姿勢が全く違うのだ。ぼくは、前者であったがいつしか後者のような都合の良い自己解釈によって自分の人生を固めてはないだろうか。
5つのスーパーに立ち寄り、そのうちの1つのアジアンスーパーで豚しゃぶ用のお肉を買い、そのうちの一つのターキッシュスーパーで捌きたてのチキン胸肉とレバーとハートを買い、そのうちの一つのオーガニックスーパーでグラスフェドビーフのステーキを買った。ただ買い物の中毒と言えるような買い物をして無駄に時間を過ごしているような気もするが、自分が望むものを、あのお店のあれが美味しいというものを買う姿勢は昔から全く変わっていないし、いつもこうやって時間を無駄にしているのだが、ぼくにとってはこれをしない人間はショートカットしているのではないかとも思う。それがある海のある田舎町ではアジアンスーパーで、ターキッシュスーパーで、オーガニックスーパーであっても、違う街でジャム屋でジャムを、チーズ屋でチーズ、また違う街で豆腐屋で豆腐を珈琲屋でコーヒー豆を買うのと何が違うのだろうか。ぼくにとっては「その場所の自分の好きなあれ」を求めることが自分が集積した無形のものの角を研ぎ鋭くする行為でもある気がしてきた。とにかく丸くならないこと、それが無形であっても。
祇園祭が前衛と歴史を兼ね備えた美しい街で行われている一方、祇園祭のない街では戦争が行われ、また違う祇園祭はないが海のある田舎町では苦悩が堂々巡りをしている。