2013年の始め、メルボルンに住み始めた頃、おそらく2ヶ月目くらいだっただろうか、Comme des Garconsのシャツを着ていたらカフェで男性に声をかけられた。名前は覚えていない。そして、ぼくもそれほど英語が話せなかったので、大した話をしたとは思えないのだが、声をかけてくれた男性がいくつかお店を紙に書き出してくれて行くべきお店を教えてくれた。そのうちの一つのお店のマネージャをしていたOliviaと友達になって、遊びに連れて行ってもらったり、仕事を紹介してもらったり、結果的に一緒に住むことにもなった。そして、JUN IWASAKI Tシャツを作った、という個人史があるのだが、その話ではなく、Comme des Garconsを着ていた時に声をかけられ曖昧な形をしていた街が、一気に具体的な形を帯び始めたという体験から、ファッションとは共通言語であり、コミュニケーションであるとぼくは強く信じていて、それがDover Street Marketで働いた大きなきっかけとなった。しかし、ぼくにとってファッションとはコミュニケーションであったはずが、オランダに来てから全くコミュニケーションツールとしての効果を持たなくなっている。田舎町にいるせいだろうか、国民性だろうか、それとも社会にとってもぼくにとってもそういう時代は過ぎ去ったのだろうか。何よりコミュニケーションを妨げるだけの何かをぼくが纏っているのかもしれない。
最近知り合った20代半ばの女の子と、好きなバンド、という話になった。Smerzが好きで今週末にBrusselまでライブに行くと言っていた。ぼくが、「Rewireのライブチケットすぐ売り切れてたね。そういえば、SmerzのMVやライブ衣装はAugust Barronがやっているよね!音楽もすごくいい。NTSのマンスリープログラムも聴いてるの?」と話をしたら、彼女はライブ衣装やNTSのマンスリープログラムに関しては全く知らなさそうで、むしろそんなことはどうでもいい、何より現象が好きなんだ、というような感じで、共通の好きなバンド、という話はそれほど盛り上がらなかった。世代の違う二人の同じ事象の認識に対する違いというような、Noah Baumbachの映画にありそうな光景だなと恥ずかしくなり、その後一人でその光景を思い出してつい笑ってしまった。意味に対する重要性とか、物事の理解とか、理解の方法とか、深さとか、そういうものへの意識が全く違う。ぼくは、少し前までくだらない大人だなと思っていたような人間になりつつあるのだろうか。友人たちとの日々で魂を燃やすように生きる20代の女性と、人生の折り返し地点を曲がったぼくとでは、世界の見え方や捉え方、そしてどう自分の目の前に起きる日常を捉えたいかが全く違う。ぼくは人生の折り返し地点を曲がり、何かを一つくらいは理解して死にたいとでも思っているのだろうか物事の実体を掴もうと苦心するが、彼女は具体的な実体ではなく形状のない現象を、目で見るわけでも、耳で聞くわけでも、手で触れるわけでもなく、感覚で捉える。そこにある現象の上を踊るように生きる。コミュニケーションとは2人以上の間に起きる共感である。ファッションといっても、音楽といっても、物事は多面的である。
コミュニケーションの力の落ちたそんな情けない自分を擁護するならば、ぼくは現象として魂を燃やすように生きること以上に、意味を求めたり、構造を探求すること、実体を掴もうとすることに興味を持ちすぎていることには昔から変わりないのだ。
Claire Denis『Beau Travail(美しい仕事)』を鑑賞。内容への感想ではなく、ぼくも自分の過去を回想する作品を作りたいとずっと思っていることを思い出した。きっとそれはAnnie Hallの影響なのだろうが。10代の頃に、映画館で、『Mister Lonely』『Tokyo』を立て続けに観て以来、ドニ・ラヴァンにはずっと憧れている。