2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.8.26

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2025.8.26

 食後、夕暮れにステラの散歩に出た。もう秋の気配を感じるので、フーディをかぶった。秋の香りの満ち溢れた空気をたくさん吸い込みながら歩いていると、棚が落ちていた。木材でできた黒い四角い洋服ダンスだ。2mほどの高さがあり、下の方には収納がある。IKEAのものと簡単に想像つくようなものだったが、少しくたびれた黒に変化していて、悪くないと思った。右角には「FREE」と書かれていた。ぼくと聖子ちゃんはここに引っ越してきてからずっと洋服ダンスに悩まされている。一時的に凌ごうとしてベッドルームに置いているラックは、結局1年以上経った今もそこに使われている。シンプルなハンガーをかけるだけのラックなので、上に布をかけて誤魔化しているが、それでも埃が気になるし、何よりもベッドルームからの風景が乱雑に見えてしまう。1日の始まりや、もしくは終わりにまだたくさんの情報(洋服)を目に入れることは、その情報(洋服)がいかに美しいものだったとしても、睡眠に影響を与えているのではないかと思っている。と言いながらも、なかなか欲しいものを手に入れるだけの資金力もなければ、作るという心意気さえない。作るにも色々な機材がいるということ、ここが高額な家賃を支払っているとはいえ賃貸物件でいつか引っ越してしまうだけの仮暮らしだということ、木材を運ぶのに移動手段がレンタカーしかないこと、レンタカーが日本で慣れていた金額に比べると高いこと、そもそも小さな部屋を無理やりベッドルームにしているような感じなので、箱型の洋服ダンスをこの部屋に作って置くことで圧迫感を感じないのだろうか、などと、決断を鈍らせるようなそんな小さな様々な障害がレイヤーに多重に重なることで作るという心意気さえ湧いてこない。作りたいという欲望さえをも抑えてしまうほどの多重の障害。こうやってぼくの人生は終わりを迎えるのだろうか。というような状況に、道路に落ちていた黒い洋服ダンス。IKEAだろうが、くたびれた黒が意外と悪くないのではないか、何より無料である。聖子ちゃんに写真を送り、「悪くないかもね」と連絡が来たので、「持って帰ろうか」と返事をした。家からは15分くらいの距離だったので、聖子ちゃんが来るまでの間、ステラと一緒にその黒い洋服ダンスに座って夕暮れの街を眺めていた。特に何か人通りが多いわけでもなければ、カフェやバーがあるわけでもないので、何の大きな変化もない。時々犬の散歩をしている人や自転車に乗った若者が通り過ぎる以外には車にか前を通らなかった。聖子ちゃんが到着し、二人で黒い洋服ダンスを持ち上げた。特別重くはないが、その2mという高さが故にバランスがとりにくい。さらにステラを連れているということもあって、色々な神経をあらゆる方向に向けながらが一歩ずつ歩を進めた。歩道を歩くには停められている自転車が道幅を狭くしていて歩きにくいので、車道の真ん中を歩こうという話になった。ぼくは、あまり良いアイデアだとは思わなかったが、聖子ちゃんは自分が一番うまく行く方法を考えるのが得意なので、悪くいうと遠慮もないので、道のど真ん中を歩こうという提案だった。恥ずかしいなと思いつつも、そんなことも言ってられないし、実際に恥ずかしい姿でもなく、ただただ1匹の犬と2人の大人が夜に自分の体より大きな黒い洋服ダンスを運んでいるというだけでひょうきんである。この街に来る前であれば喜んでやっていただろう。デン・ハーグという、いやぼくの住むエリアがとても白人社会なので、どうも突飛な行動が好まれないような感じを受けてならないのだ。その黒い洋服ダンスを運びながら、やはりぼくはこの街でぼく自身の本来の性格を押し殺して生きているような気がした。箱寿司のような四角いところに押し込まれた奇天烈な魂も同じように四角になってしまうのだろうか、と思った。それならば急いで箱寿司のような四角い箱から飛び出さなければいけない。1,2,1,2といったように少し声を掛け合いながら歩いた。ステラも、いつもと違う異様な姿と妙な声掛けにリズムが出てきたのか、嬉しくなったのか、ひどく前にひっぱり続けるので、とても歩きにくい。手伝ってくれるような気配もなく、単純に興奮してぐんぐんと前に進もうとする。またその引っ張りの不調和音が二人の持つリズムを狂わせるので、「ちょっと待って」とか「止まって」とか言い合う始末になる。結局10m進んでは止まり、時々前方から車や後ろから自転車がくるので、脇道にそれたりしながら、1時間くらいだっただろうか、なんとか運び切った。運び切った多幸感は、勢いを加速させそのまま家へと繋がる階段に運び込もうとしてみたが、どうもサイズが合わなさそうである。持ち上げる計画は立てたが、やってみるしかないということで、一段一段丁寧に持ち上げながら進む。勾配がある階段は、高さがあるものの、最後少し捻りがあることもあり、捻りの部分でどうも高さが足りない。ベッドを持ち上げた時も、最後は捻じ曲げるように押し上げたのを覚えているし、ソファを持ってきてくれた業者さんは力ずくでなんとかやっていた。しかし、黒い洋服ダンスはそれよりも大きかった。何よりも初めての立方体であった。途中でねかしてみることにしたが、それでも難しい。もう1時間半も黒い洋服ダンスを運んでいるので、腕だけではなく全身に疲労が感じられ、気付けば二人とも汗だくで、ぼくはタンクトップ姿になっていた。どう足掻いても通らないので、解体しようということになり、再び家の外に出した。隣人サンドラがちょうど帰ってきたので、階段を持ち上がれないんだという話をすると、Oh, such a pity!と言って、工具を貸そうか、と言ってくれたが、工具は持っていたので親切な提案を断った。もう他には方法がないので、六角などを使いながら解体しようとしていた。IKEAなので簡単に解体できるだろうと楽観的であった。しかし、取れるだけのネジを外しても、解体できない。丁寧な持ち主だったのだろうか、すべての工程で糊付けされているのだ。少しパーツが外れたので、軽くなった黒い洋服ダンスは、持ち上げられるだけの重さになった。サイズよりも重さだったのではないかという楽観的な期待も込めてもう一度階段に向かった。案の定、同じ様である。もうどう足掻いても持ち上げられそうにないので、ネジをはめ直し、誰かが運び込むことを願って家の近くのゴミ箱の横に置きに運んだ。白い紙に「FREE」と書いて右角に貼るのを忘れた。やっぱりIKEAは性に合わないのだと思った。いや、ぼくが迎合しようとも向こうからお断りされているのだ。