2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.8.23

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2025.8.23

今日は、土曜日だが、特に何かあるわけではない。先週坂田さんとデルフトに行ってからもう一週間が経った。
品川やでの展示に向けて、短編を書いたのだが、写真作品と物語りでは、大きくちがう表情を見せる。なぜぼくは文章を書きたいと思っているのか、なぜぼくは写真を撮りプリントしたり、本を作ったりするのか。
言語というものが具体的に描きたいから写真を撮るのだろうか。
言語に囚われていくような感覚がある。自分は、デザイナーだと言えば、デザイナーらしい振る舞いや行動をし始め、実業家だと言えば、そういったようにだ。
それは自分自身についてだけではなく、ある自分の身の回りの見え方にも左右する。フランスが言葉よりも実存の方がダイナミズムを持っているし、実存から言語にするのは、生のライブ音楽がCDなどに削ぎ落とされるようなものなのである。
だから、ぼくは写真を撮るのだろう。言語化によって削り落ちてしまうものを丁寧に掬うように。