2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.6.16

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2024.6.16

5月末頃から、8時間寝ることを心がけているせいか、それともただ朝起きれなくなったせいか、そのどちらもとも言えるが、今日も朝8時半に起きた。朝から重い体に鞭を打ち会社に行っている人や子供の送り向かいをしたり、親の世話をしたり、畑に出ている人たちのことを考えると、自分の社会における価値というものを疑いたくもなるが、否定されるべきではないし、ぼくはぼくの生き方があり、自分の生活や社会に対しての理想もある。
と強く言いたいのだが、恥ずかしながらバルセロナの前くらいから異常にリズムを欠いた生活をしていて、もう3週間くらい日記も書いていない。書いていないとは朝のうちにパソコンに向かって書いていないということで、メモくらいは残している。しかし、一日のうちで一定の時間パソコンの前に座って日記を書いていないということは、一日の18時間ほどの時間の間で、自分の目の前に起きる出来事について思いを馳せたり、思考を巡らしていないということであり、ぼくにとっては思考を巡らせない考えないということは、呼吸をしないのと同じようなものでもある。考えていることを言語化しようとしないということは、何も考えていないのと同じような生活をしているからだ。そして、ぼくは考えることによって、それを自分の言葉やリズムにすることによって生きていることを実感してきた人間であるからだ。やはり、思考を巡らすということだけがぼくにとってはとても根源的で自分の軸になるような大事な行為であるように思えるので、この3週間は明らかに自分自身を見失った、足の置き場を失った海鳥のような気分だった。飛んでいたのかどうかすらわからない。
ちなみにこれまでは何時に寝ても7時に起きることを大袈裟に言えば自分の生き様にしてきたようなところがあったが、8時間寝ることを心がけ始めたのは、稼ぎや満足感の大小あれど、せっかく自分の時間で仕事をしたり生活できるのだから、自分の身体のために8時間寝てもいいんじゃないかと思ってきたことにあり、今は朝7時に起きて満員電車に乗ることもなければ、10時にお店をあける必要も無い。朝から誰かに会う予定もない。頭で考えて型を決めた生き方ではなく、自分の身体との対話によって生み出された自然に形作られた生き方を目指そうと思ったのだ。しかし、ぼく自身に厳しく言えばそれは一般的な意味での「社会参加」をしていないということになるのかもしれない。会社に行ったり、お店を開けたりするということは、街の一部としての自分、街における自分自身の存在価値、他人との信頼関係の中にある自分自身の存在価値を認めていることであり、それが自分の身体との対話だけではなく、社会における価値から生み出される行為なのだ。そんな形で、自分自身が
社会参加しないことをもし認めるのであれば、自分なりの社会参加の方法を考える必要があり、それは例えば自分自身に自分のためのルールを課してに具体的に行動する必要があるということでもある。ぼくがこの街にいなくてもこの街は変わらないし、社会は前に進む。この土地の人々はぼくに想いを馳せることもなく、死ぬまで思い出すこともなく、ぼくのことを忘れ去るだろう。ぼくははっきり言ってそれほどの人間である。では自分なりの社会参加や社会との接点をどこに見つけるかというと、作品を作る、文章を書く、写真を撮ることなのではないだろうか。それが本当の社会参加であるという風に考えないと自分の作品すらも作れないのではないか。その上にアンガージュマンが成り立つのだ。アンダーグラウンドを読んだ理由も自分自身のアンガージュマン、社会における責任みたいなものを全うするべきなのだと自分に言い聞かせたかったということもあった。それはその街や土地への積極的な社会参加だけではなく、広義での社会参加の意味を見出したかったからなのだ。
今日は、久しぶりに暖かい日になったので、自転車でサイクリング。15時からEuro 2024のポーランドvsオランダ、あまり興味がなかったので家で観戦せずに街の反応を見ることにした。街中のパブが大盛り上がりで、逆転ゴールが入った時にはちょうど走っていた目抜通りが人々の歓声によって揺れたように感じた。父の日なので、父にメッセージを送り、ステラの散歩にビーチに行く。聖子ちゃんもぼくも誰にも会いたくないなというようなファッションを身に纏い、まあこの街には知り合いなんてほとんどいないんだからと言っていたら、ビーチで文さんの友人のLisa(スペル不明、リサ)に「Stella?」と声をかけられた。帰って、21時からセルビアvsイングランドを観戦。イングランドを応援していたが、選手たちが自チームでの躍動を見せないので、なんだか見ていて面白くない。みんな窮屈そうで、Bukayo SakaPhil FodenHarry Kaneもクラブチームでエースとして前線で活躍する選手は、試合に出ていたのかと思うほどであった。ぼくの好きなJack Grealishがメンバーから外れていることも以前ほどの楽しみが失われていることにある。Jack Grealish好きをあまり公言していないが、目に見えるような身体能力があるわけではないが、知性があり、試合全体のリズムを作るようなスタイルのある選手が好きなことは10代の頃から変わっていない。
よく言われることかもしれないが、クラブチームの存在価値がナショナルチームの存在価値を社会的影響力や、金銭面、知名度、クオリティ全てにおいて、飲み込んでしまっている。価値だけの問題ではないかもしれないが、選手たちがクラブチームで受けている評価や与えられる役割を与えられないままにナショナルチームの試合に出て、なかなか共鳴できない。それは個人が受けている評価というものが、国の偉大さを超えてしまっているとも言える。国は偉大か、という問題は少し横においておくとして、大袈裟に言えば、本来ナショナルチームは、国民の注目と期待を背負い、個人のプレイヤーのエゴを超越したものであった。ナショナルチームのユニフォームを纏うことは自分の価値の誇示ではなく、ナショナルチームの存在の誇示であった。プライドであった。しかし、一国の王様を気取ったような選手がいるのが今のイングランド代表である。特に前線で注目されたり目立つポディションの選手においては顕著である。一国の王様が王様が集まる場所に出た時に、one of themになり、他のルールを強いられると、やる気がなくなったり、自信を失ったりするのはよくあることだろうし容易に想像できる。そんな状況でも自分に言い聞かせるようにその時々で役割を見つけられる人間は素晴らしい。この大会でJude Bellinghamが10番を背負い、この試合では自分のチームというように振る舞っていたが、責任感が空回りしたのか、見ていられなかった。その点、今期のプレミアリーグMVPであるPhil Fodenの献身性と言ったらもう感動してしまうほどだ、主役にしかなれない人間と主役になれなくても自分の存在をその場で見つける柔軟性を持った人間、ぼくは主役になる予定はないが後者のような人間でありたいと思う。ぼくは決してナショナリストではないし、国のために死ぬということは考えられない、しかし国というものを背負うのであればそこには自分の行動に社会性を含むということを理解しようと思う。積極的社会参加である。その点、ArsenalのBen Whiteはナショナルチームへ参加しないという意思を表明している点で、自分の生き方を知っているように思える。自分はベンチに座って試合を見るためにサッカーをやっているわけではないのだ、ということだろう。Phil Fodenのように王様にも献身的な役割にもなれる選手でなければ、メンバーに入るべきではないのかもしれない。上手い選手や高級取りの選手が増えてくるとフットボールにおけるクラブチームとナショナルチームの意味が全く変わってきている。イングランドには成熟したフットボールが存在する。このEuro 2024のイングランドナショナルチームを見ていていると、例えば寿司屋へ寿司を食いに行ったとしよう、まずガリがどんと置かれ、庶民的な握りだけではなく、タイミングよく軍艦や炙り物、穴子が出てきて、最後には細巻きが出てくるようなチームがぼくは好みだなと思った。好きだからとホタテや甘エビ、中トロや光ものばかり食べていてはつまらない。
耳栓が見つからなく仕方なく片耳だけつけて就寝。色々考えていると、30分くらい寝れず。