2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.3.16

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2022.3.16

朝から便を採取し、大和内科クリニックへ届ける。自分の便をとならければいけないと思うと出ないもんで、昨日は大変困った。結局、必ずしないといけないという思考が身体に妙な力が入ってしまい、それは身体をこわばらせ、呼吸を変え、血の流れを変え、思考さえも変えてしまう。悪循環は、そのしなければいけないという自分自身が自分に貸せた暗示のようなものが発端になっている。だから、じゃあその暗示を解いて、別に出ないならそれはそれで仕方ないと少しでも思うようにすればすんなりと出るのかもしれない。とにかく、昨日は人生初の検便ということもあり、緊張と焦りのせいで便はうさぎほどしか出なかった。
話は変わり、昔京都二条城近くにsolという場所があり、そこの店主森田大剛さんのお茶会のようなものに参加した。そこに同席されていた学生時代からお世話になっている河井寛次郎記念館の鷺さんに「梶古美術の梶さんもお知り合い?」というようなことを尋ねられ、知りません的なことを話したことがある。ちょうど結婚の内祝いとか引き出物とか、身体の不調とかで和のものに傾倒しているところだったからか、なんでかわからないのだけれど、ふとそれを思い出す。梶古美術さんについて妙に気になり、調べると祇園にある古美術店で、8代も続いているのだそう。サクッと買えるようなもんではないなと思いながら、だけれど久しぶりにぐいぐいと引き込まれるような感覚があり、毅然さや教養とか洒落を感じるようであった。それは、ウェブで調べて出てきたことからそう感じたわけではなく、それがきっかけとなり自分の中に眠っていたその感覚を思い出したというほうが違い、だって実際にものはみてないのだから。

なんやらかんやらしていると、中学の同級生のお父さん古美術商やっけみたいなことを誰かが言っていたのを思い出して、「あーなるほど」となる。すごい単純だけれど、顔が似てる。
で、その同級生は何してるのやろと思い、facebookを見ると、自分で会社を立ち上げて「ガイアの夜明け」に出ているのだそう。別にめっちゃ仲良かったわけではないので、今更連絡するのもあれやなと思い、思いとどまるが、いつか話ができるとおもろいやろうなと思う。大学の頃に異常に興味を持っていた世界がまだもちろん存在し、自分中心で考えるのは野暮やなと思うけれど、むしろ古美術の方が自分より長い年月いろんな人からああやこうや言われて淘汰されてきている。向こうからするとあんたまだいはったんですか?という感じやろうけれど、ぼくからすると自分が好きだったものが遠く離れて自分の世界に存在しなくなったとしてもそれは同じ時間の流れで進んでいたのだ。

勅使河原宏『利休』の中にも楽焼がたくさん出てくるが、梶古美術さんやこの映画を見ていると、昔の人ってなんでこうも洒落を楽しむことができたんやろうと不思議な気持ちになる。ぼくだって本来、そういう人間やったはずなのに、気付けばなんかようわからない感覚の中を彷徨っている。自分のすることが「自分のじゃない」という感覚が常に付き纏っていることがぼくが最近すごく感じ悩んでいることやったので、洒落を楽しむそれは、自分が本来持っている感覚を思い出させるような気がした。スッキリする。「そうやねんな!」と自分の感覚と合致し、腑に落ちる感覚とでも言えばいいのか。この感覚ほんまに最近全く感じてなかった。

Afloでプリントの最終色校正。白井さんが素晴らしい仕上げをしてくれた。作品は自分だけで作れるものではなく、人の力が必要だ。自分でプリントするのもいいけれど、人にある程度任せる、ということをしていくことで自分はもっと自分がするべきことに注力出来るのかもしれない。ぼくは、ストーリーを炙り出すような、無意識を意識的に受け入れるようなそんなことを作品を通じてできないかと思う。それは作家がやることでもある。

天気がいいので、外の席のあるところでお茶をしたいと思うが、なかなか思いつかず、Alfoの向かいにあるスターバックスでオーツチャイを飲む。

夜、聖子ちゃんとStellaの散歩へ。散歩しながらの会話が一番心をスッキリさせる。