自分のプロジェクトプロポーザルを読んでいると、やっぱり自分個人の感覚で書きすぎているところがあるので、聖子ちゃんに読んでもらって指摘を受けている。だけれど、これまでだとムッとしていた部分もどんどんと納得できるというか、他人の意見だけれどそういう風に理解する人もいるんだろうなと受け止められるようになってきた。あとは、聖子ちゃんと婚約したこともあり、自身の感覚に変化が生まれているのかもしれない。前よりも彼女が自分と近くなったというか、どんな感覚なのかはわからないけれど、受け入れられるようになったというべきか。
今日、自分のプロジェクトプロポーザルを読んでいると、社会との接点というような部分が見えないことに気付いた。もちろん、生きているのだから、無意識に社会からの影響を受けずにはいられないのだけれど、それを可視化し、共通の認識にする作業というものが大切なのではないか。
自分自身の年齢と時代性がもう少し明らかになり、社会との接点を見つける。否応でも影響を受ける出来事というものが社会には存在し、その体験を共にした人たちにしか感じ得ない共有感覚に訴えるものが必要なのである。
そのようなものが存在しないと作品がただの個人の記録としてしか成立しない。共有の感覚にある社会的主題を持ちながら、だけれど客観的、一般論になりすぎず、私でなければできない表現、私がやるべき表現を目指しているのだから、それをもっともっと深く掘り、小さなそれらの破片をピックアップして紡ぐ。
今日、自分のプロジェクトプロポーザルを読んでいると、社会との接点というような部分が見えないことに気付いた。もちろん、生きているのだから、無意識に社会からの影響を受けずにはいられないのだけれど、それを可視化し、共通の認識にする作業というものが大切なのではないか。
自分自身の年齢と時代性がもう少し明らかになり、社会との接点を見つける。否応でも影響を受ける出来事というものが社会には存在し、その体験を共にした人たちにしか感じ得ない共有感覚に訴えるものが必要なのである。
そのようなものが存在しないと作品がただの個人の記録としてしか成立しない。共有の感覚にある社会的主題を持ちながら、だけれど客観的、一般論になりすぎず、私でなければできない表現、私がやるべき表現を目指しているのだから、それをもっともっと深く掘り、小さなそれらの破片をピックアップして紡ぐ。