モンテーニュ『エセー』を読み進める。こういう個人的ワークはやっぱり生々しく鬱々とし、そして思慮深くて読んでいて共感も多く楽しい。緊急事態宣言があけて初めての土曜日。銀座には違う土地か違う時代かと思うほどの人がいた。
最終調査によると、政府の支持率は26%を切っているのにも関わらず、その政府が一度緊急事態宣言を解除したら、人々は街に繰り出した。74%の人たちは程度はそれぞれ現政府を支持しない(=信用していない)はずなのに、政府による緊急事態宣言が明けたことを良い口実に街へ繰り出す。口実がないと生きていけないのだろうか。
緊急事態宣言解除を理由に、路上で酒を飲み、タバコを吸っているのだけれど、そこを必要とするもののことは一切無視なのである。数日前までそんな風景は全く見ないものとなっていたので、なんだか過去に戻ったかのような違和感さえ覚えるほどであった。
「汚せ、不便にせよ、土地の価値を下げよ」と銀座四丁目で楽しくやってるのならまだしも、緊急事態宣言下ではそんな行為はなかなか見られなかったので、違うのだろう。
銀座四丁目で働き、仕事終わりにコンビニで酒を買い路上で座り込み飲む、一杯やったあとはビルに立ちションベンをして自分の住む杉並区へ帰って行く同僚をおもうと、彼こそが反政府74%の最たる例にも感じるし、ただ同時に彼らは都合よく政府に文句をいい、都合よく出かけているだけだとも言える。それらはアナーキズムや無政府主義者の態度ではなく、人間の怠惰でしかないように思えるのだ。
ある上司は、私たち日本人は勤勉だ、よく働いているし、社会システムには恵まれているといい、ヨーロッパ人はだらしがない、仕事しないというのだが、さてどんな風に仕事をしようという話になると、今ヨーロッパではこんな風なシステムをとっているから取り入れようという。都合良く全てを切り取る、これを傲慢、怠惰以外のなんと言えるのだろうか。人間らしい知性をそこに感じ取ることが出来るだろうか。
都合良く生きることが楽ならばそれでもいいが、そこに人間として生きる美学はないのだろうか。みんながゾンビになった時自分もゾンビになることを選ぶのか
ここに記録している言葉は、決して「出歩くな」でも「遊ぶな」でも「家にいるな」でもなく、出かけたいなら別にいつだって、遊びたかったらいつでも、出かけたらいい。政府を支持しないのであれば彼らの政治方針や宣言などあってないようなものではないか。自分が信じる道を信念と知性を持って進んでいきましょう。
聖子ちゃんの熱は一気に下がったようで一安心。遠くで見ていると隣にいたら驚かなくていいことでも大きく驚いたり心配したりしてしまう。当の本人はケロっとしていても遠くにいるぼくとしては「もし…」という想像が膨らみすぎるのであまり良い方向に考えることができない。心配せずに信じるということは大切である。同時に信じるに値する存在であること、信じたいと思えること、信じられる存在でいることもとても大切だと感じている。
信じられる存在、信じたいと思わされる存在とはどういう要素から生み出されるのだろうか。
家に着いた途端嵐になり、雷に横殴りの雨に家が壊れてしまうんじゃないかと思うほどであった。一人で3部屋も持っているとあそこは大丈夫か、とかここは大丈夫かと心配になる部分が多いと実感。
夜は、なめこと豆腐の味噌汁、鯖を焼く。初めて家のグリルでお魚を焼いたがイマイチ使い方がわからない。グリルを使うのは、実家ぶりだから多分、15年ぶりくらいだろうか。
Cairo Apartmentとは別で自分の本を作ろうと思い制作を進めているのだけれど、久しぶりに家で編集作業をすると、この家がますます快適に感じられる。静かで、要塞のように思え、集中力が集まってくるような感覚もある。前の家は、景色が抜けていて遠くに首都高を走る車が常に見えていたから常に動きがあった。
mubiでショートムービーを一本観て就寝。
最終調査によると、政府の支持率は26%を切っているのにも関わらず、その政府が一度緊急事態宣言を解除したら、人々は街に繰り出した。74%の人たちは程度はそれぞれ現政府を支持しない(=信用していない)はずなのに、政府による緊急事態宣言が明けたことを良い口実に街へ繰り出す。口実がないと生きていけないのだろうか。
緊急事態宣言解除を理由に、路上で酒を飲み、タバコを吸っているのだけれど、そこを必要とするもののことは一切無視なのである。数日前までそんな風景は全く見ないものとなっていたので、なんだか過去に戻ったかのような違和感さえ覚えるほどであった。
「汚せ、不便にせよ、土地の価値を下げよ」と銀座四丁目で楽しくやってるのならまだしも、緊急事態宣言下ではそんな行為はなかなか見られなかったので、違うのだろう。
銀座四丁目で働き、仕事終わりにコンビニで酒を買い路上で座り込み飲む、一杯やったあとはビルに立ちションベンをして自分の住む杉並区へ帰って行く同僚をおもうと、彼こそが反政府74%の最たる例にも感じるし、ただ同時に彼らは都合よく政府に文句をいい、都合よく出かけているだけだとも言える。それらはアナーキズムや無政府主義者の態度ではなく、人間の怠惰でしかないように思えるのだ。
ある上司は、私たち日本人は勤勉だ、よく働いているし、社会システムには恵まれているといい、ヨーロッパ人はだらしがない、仕事しないというのだが、さてどんな風に仕事をしようという話になると、今ヨーロッパではこんな風なシステムをとっているから取り入れようという。都合良く全てを切り取る、これを傲慢、怠惰以外のなんと言えるのだろうか。人間らしい知性をそこに感じ取ることが出来るだろうか。
都合良く生きることが楽ならばそれでもいいが、そこに人間として生きる美学はないのだろうか。みんながゾンビになった時自分もゾンビになることを選ぶのか
ここに記録している言葉は、決して「出歩くな」でも「遊ぶな」でも「家にいるな」でもなく、出かけたいなら別にいつだって、遊びたかったらいつでも、出かけたらいい。政府を支持しないのであれば彼らの政治方針や宣言などあってないようなものではないか。自分が信じる道を信念と知性を持って進んでいきましょう。
聖子ちゃんの熱は一気に下がったようで一安心。遠くで見ていると隣にいたら驚かなくていいことでも大きく驚いたり心配したりしてしまう。当の本人はケロっとしていても遠くにいるぼくとしては「もし…」という想像が膨らみすぎるのであまり良い方向に考えることができない。心配せずに信じるということは大切である。同時に信じるに値する存在であること、信じたいと思えること、信じられる存在でいることもとても大切だと感じている。
信じられる存在、信じたいと思わされる存在とはどういう要素から生み出されるのだろうか。
家に着いた途端嵐になり、雷に横殴りの雨に家が壊れてしまうんじゃないかと思うほどであった。一人で3部屋も持っているとあそこは大丈夫か、とかここは大丈夫かと心配になる部分が多いと実感。
夜は、なめこと豆腐の味噌汁、鯖を焼く。初めて家のグリルでお魚を焼いたがイマイチ使い方がわからない。グリルを使うのは、実家ぶりだから多分、15年ぶりくらいだろうか。
Cairo Apartmentとは別で自分の本を作ろうと思い制作を進めているのだけれど、久しぶりに家で編集作業をすると、この家がますます快適に感じられる。静かで、要塞のように思え、集中力が集まってくるような感覚もある。前の家は、景色が抜けていて遠くに首都高を走る車が常に見えていたから常に動きがあった。
mubiでショートムービーを一本観て就寝。