76年前の今日午前8時15分に広島に原爆が投下された。
原爆投下のボタンを押すという行為の前にどれだけの人の葛藤と議論があったのだろうか、ボタンを一つ押すだけでその街を全て破壊してしまう、多くの人の命を奪ってしまう決断。
全てが変わってしまうような出来事がボタンを押すという行為によって決められたのだ。
例えはひどいが、何百万円もするものを他人のためにカードで決済する場合と似ているのではないかと思う。カードの場合は取り消しできるだろうが、何が似ているかというと実感のなさである。自分自身がカードの保持者であり、利用の権限を持っているにも関わらず、同じくボタンを押す権限を任されているにもかかわらず、その後に何が起きるのかということを想像や実感できないのだ。
世の中には、実感のないまま進むことはたまにある。自分の過ちの大きさに後から気付くなんてことも実際よくあるのだ。(本当は良くあってはならないことだけれど)
その行為がどのくらいの人の心身にダメージを与えるかは計り知れず、一つの行為がトリガーとなり自分が想像していないところまで進んでいくのである。きっとボタンを押した人は、76年後にこんな風にぼくや一般市民の心をモヤモヤとさせているとは全く思っていないし、僕ぐらいであれば考えさせられる出来事で二度とないようにと行動を戒めるくらいの安易なことが言えるのだろうが、実際の被爆者の心や記憶に残っている言葉にならない感覚をボタンを押した人間はどう感じているのだろうか。もちろん彼が押さなくても違う誰かが押していたからそれは集団の責任であるのだけれど。
76年後のぼくは、被害者としての側面から想いを馳せると同時に、加害者であった日本国という立場をさらに考えなければならないとも強く思う。戦争のない世の中になればいいとぼくは切に願っている。まずは、自分の身の回りからだ。
18時からU-24日本代表vsU-24メキシコ代表の試合を観戦。1-3の完敗。東京オリンピックは、ベスト4で終了。
メダルを取ることと、とらないことでは大きな差があると思うし、実際、数十年後に振り返った時にメダルをとっていない世代と同等の扱いになるのである。それは選手たちはぼく以上に感じていただろう。
そして、メダルを取ることで新しい世代の目指すべき明確な目標ができるし、指導者にとってもこれまでやってきたことが一つの形になることは心地よい自信となるはずだった。そして、自信を持った指導者と選手の信頼関係は、選手の人間的成長を促しただろうし、強い信頼関係の中にあるエネルギーを持って高い目標に挑むべきだ。
自信を持てば、それは時に邪魔となることもあるが、新しいことへのチャレンジが出来るようになるし、新しいチャレンジは多様性にもつながる。メダルを取れば、いや驚くような試合をすることで、ファンを拡大し、若い子たちがサッカーに憧れる。それが、実際にあるべき姿だったし、そんなことを今後のサッカーに与えてくれそうなチームだった。コロナ禍でもこうやって開催したものを最後までやり遂げることが出来てよかったのではないか。
このチームのメンバーが決まる前から、欠かさずチームを追い、一昨年からサッカーをまたしっかり見るようになっていたので思い入れが強くなっていたようである。
喪失感があるのだが、ぼくは画面の前で応援し、ある選手に肩入れをし、時に批評家のように隣にいる彼女にあたかも自分のことのように雄弁に語っていただけなのだ。
ぼくに何ができただろうか、何が出来るのだろうと考えるべきなのである。政治と同じで、無力な個人としているのではなく、微力ながらも個々人のレベルから変化がないと文化は育たない。
例えば、僕たちが毎週末サッカーを楽しみにしているとする。
ある人は、スタジアムに足を運びスタジアムを満席にする。そうするとチームは潤う、選手の競技環境は整い、これまでできていなかった様々な分野のアップデートも進むだろう。チームは集客でき入場料によるお金の回収もでき、グッズの売り上げも上がるだろう。選手の人気も上がり、スポンサーがつくだろう。給料が上がり、プロサッカー選手を目指す人間もさらに増えるはずだ。
またある人は、毎週カフェで試合を流し人がそこに集う。市井の人間の口頭レベルで議論が交わされサッカーIDが上がる。民衆がサッカーを知ると、選手及び指導者はさらにそれに応えるように色々なサッカーをするようになっていく。チームごとの色ができると国内リーグの魅力が増える。国内リーグが盛り上がるとナショナルチームは強くなるし、日本人だけではない選手の参加も増えるだろう。
ぼくたち一般市民レベルでのサッカーファンができることはたくさんある。現に、ぼくが住んでいたフランスには誰でもがサッカーを観戦する土壌があった。
違うスポーツに目を向ければ、例えば日本のプロ野球はどうだろうか、人気があり、毎日テレビで試合をやっている。サッカーはどうか、地上波での中継はない。それは大きな差になっている。観たい人が観れるDAZNなどのストリーミングサービスがあることは素晴らしいが、ストリーミングでは届かないエリアに届かせることが、サッカーを強くするには必ず必要なので、もっと地上波でのJリーグ中継をするべきだと思う。興味がなくてもなんとなくテレビが付いていたから見ていたという感じで自然と馴染むこと。週末になればサッカーだよねという空気を作ること。人間の生活の隙間に入っていくことがナショナルチームを強くすることにつながるとぼくは思う。
文化とは、全てそうやって成り立っているんだとぼくは思っている。
それにしても6試合全て楽しくドキドキしながら見れたのはすごく嬉しいことだ。
サッカー観戦後、気分を無理やりでも変えるためにウィリアム・フリードキン『エクソシスト』を鑑賞。エクソシストを語るウェスアンダーソンの意見に同感したのだけれど、ホラーの怖いところは、実際に何が起きているかということがわかるよりも、恐怖っぽいものが迫ってきているということの方が怖いのだ。『エクソシスト』はカルトになり得るだけのネタの多い映画だなと思ったが、怖さを求めていたぼくは、正直先日のU-24日本vsU-24スペイン戦もしくはニュージランド戦の方がジリジリと迫りくる感じに興奮していたのは間違いない。あれも一種のホラー動画である。精神的にはジリジリとされる方が爆発してしまう可能性が高いので、サッカーの戦略も今後は、ホラー映画スタイルを継承するチームも出てくるのではないだろうか。あえてゴールを決めずに、自滅を待つようなスタイル。
原爆投下のボタンを押すという行為の前にどれだけの人の葛藤と議論があったのだろうか、ボタンを一つ押すだけでその街を全て破壊してしまう、多くの人の命を奪ってしまう決断。
全てが変わってしまうような出来事がボタンを押すという行為によって決められたのだ。
例えはひどいが、何百万円もするものを他人のためにカードで決済する場合と似ているのではないかと思う。カードの場合は取り消しできるだろうが、何が似ているかというと実感のなさである。自分自身がカードの保持者であり、利用の権限を持っているにも関わらず、同じくボタンを押す権限を任されているにもかかわらず、その後に何が起きるのかということを想像や実感できないのだ。
世の中には、実感のないまま進むことはたまにある。自分の過ちの大きさに後から気付くなんてことも実際よくあるのだ。(本当は良くあってはならないことだけれど)
その行為がどのくらいの人の心身にダメージを与えるかは計り知れず、一つの行為がトリガーとなり自分が想像していないところまで進んでいくのである。きっとボタンを押した人は、76年後にこんな風にぼくや一般市民の心をモヤモヤとさせているとは全く思っていないし、僕ぐらいであれば考えさせられる出来事で二度とないようにと行動を戒めるくらいの安易なことが言えるのだろうが、実際の被爆者の心や記憶に残っている言葉にならない感覚をボタンを押した人間はどう感じているのだろうか。もちろん彼が押さなくても違う誰かが押していたからそれは集団の責任であるのだけれど。
76年後のぼくは、被害者としての側面から想いを馳せると同時に、加害者であった日本国という立場をさらに考えなければならないとも強く思う。戦争のない世の中になればいいとぼくは切に願っている。まずは、自分の身の回りからだ。
18時からU-24日本代表vsU-24メキシコ代表の試合を観戦。1-3の完敗。東京オリンピックは、ベスト4で終了。
メダルを取ることと、とらないことでは大きな差があると思うし、実際、数十年後に振り返った時にメダルをとっていない世代と同等の扱いになるのである。それは選手たちはぼく以上に感じていただろう。
そして、メダルを取ることで新しい世代の目指すべき明確な目標ができるし、指導者にとってもこれまでやってきたことが一つの形になることは心地よい自信となるはずだった。そして、自信を持った指導者と選手の信頼関係は、選手の人間的成長を促しただろうし、強い信頼関係の中にあるエネルギーを持って高い目標に挑むべきだ。
自信を持てば、それは時に邪魔となることもあるが、新しいことへのチャレンジが出来るようになるし、新しいチャレンジは多様性にもつながる。メダルを取れば、いや驚くような試合をすることで、ファンを拡大し、若い子たちがサッカーに憧れる。それが、実際にあるべき姿だったし、そんなことを今後のサッカーに与えてくれそうなチームだった。コロナ禍でもこうやって開催したものを最後までやり遂げることが出来てよかったのではないか。
このチームのメンバーが決まる前から、欠かさずチームを追い、一昨年からサッカーをまたしっかり見るようになっていたので思い入れが強くなっていたようである。
喪失感があるのだが、ぼくは画面の前で応援し、ある選手に肩入れをし、時に批評家のように隣にいる彼女にあたかも自分のことのように雄弁に語っていただけなのだ。
ぼくに何ができただろうか、何が出来るのだろうと考えるべきなのである。政治と同じで、無力な個人としているのではなく、微力ながらも個々人のレベルから変化がないと文化は育たない。
例えば、僕たちが毎週末サッカーを楽しみにしているとする。
ある人は、スタジアムに足を運びスタジアムを満席にする。そうするとチームは潤う、選手の競技環境は整い、これまでできていなかった様々な分野のアップデートも進むだろう。チームは集客でき入場料によるお金の回収もでき、グッズの売り上げも上がるだろう。選手の人気も上がり、スポンサーがつくだろう。給料が上がり、プロサッカー選手を目指す人間もさらに増えるはずだ。
またある人は、毎週カフェで試合を流し人がそこに集う。市井の人間の口頭レベルで議論が交わされサッカーIDが上がる。民衆がサッカーを知ると、選手及び指導者はさらにそれに応えるように色々なサッカーをするようになっていく。チームごとの色ができると国内リーグの魅力が増える。国内リーグが盛り上がるとナショナルチームは強くなるし、日本人だけではない選手の参加も増えるだろう。
ぼくたち一般市民レベルでのサッカーファンができることはたくさんある。現に、ぼくが住んでいたフランスには誰でもがサッカーを観戦する土壌があった。
違うスポーツに目を向ければ、例えば日本のプロ野球はどうだろうか、人気があり、毎日テレビで試合をやっている。サッカーはどうか、地上波での中継はない。それは大きな差になっている。観たい人が観れるDAZNなどのストリーミングサービスがあることは素晴らしいが、ストリーミングでは届かないエリアに届かせることが、サッカーを強くするには必ず必要なので、もっと地上波でのJリーグ中継をするべきだと思う。興味がなくてもなんとなくテレビが付いていたから見ていたという感じで自然と馴染むこと。週末になればサッカーだよねという空気を作ること。人間の生活の隙間に入っていくことがナショナルチームを強くすることにつながるとぼくは思う。
文化とは、全てそうやって成り立っているんだとぼくは思っている。
それにしても6試合全て楽しくドキドキしながら見れたのはすごく嬉しいことだ。
サッカー観戦後、気分を無理やりでも変えるためにウィリアム・フリードキン『エクソシスト』を鑑賞。エクソシストを語るウェスアンダーソンの意見に同感したのだけれど、ホラーの怖いところは、実際に何が起きているかということがわかるよりも、恐怖っぽいものが迫ってきているということの方が怖いのだ。『エクソシスト』はカルトになり得るだけのネタの多い映画だなと思ったが、怖さを求めていたぼくは、正直先日のU-24日本vsU-24スペイン戦もしくはニュージランド戦の方がジリジリと迫りくる感じに興奮していたのは間違いない。あれも一種のホラー動画である。精神的にはジリジリとされる方が爆発してしまう可能性が高いので、サッカーの戦略も今後は、ホラー映画スタイルを継承するチームも出てくるのではないだろうか。あえてゴールを決めずに、自滅を待つようなスタイル。