昼は、歌舞伎そばでとろろそばを食べる。初めて歌舞伎そばでとろろそばを食べたか、気分に合わなかった。まずそもそも、かき揚げ付きのもりそばは「もりかき」と呼ばれ、大盛りのかき揚げ付きもりそばは「おおもりかき」と呼ばれている。大盛りのとろろそばは、「大トロ」という名称で呼ばれているようだった。その時点で、赤身が苦手なぼくには分が悪い。大トロのせいでどうにもこうにもマグロトトロ丼を食べるような感覚になってしまったのはぼくの責任である。このように、人生において、予期せぬことが相手を困惑させてしまうことは多々ある。とろろそばを出してくれたおばちゃんには罪はなく、想像もしない形で相手を困惑させているのである。ぼくはもう歌舞伎そばでとろろそばを食べることはないだろう。なんだか、これはぼくが小学校の時に大好きだったマンガ、ラッキーマン的な思考である。だから、何事にもあまり自分で多くを判断しすぎるのは良くない。ラッキーマンが大好きだったぼくが幸運に恵まれこれまで生きてきたのに、なぜ楽観的生きることができなくなってしまったのだろうか。ペシミズムはフェリーニとぼくの共通点である。
夕方は、銀座SIXに出来たEATALYでエスプレッソとピスタチオのズコットを食べる。なんだか商業施設の中に商業施設ができたような雰囲気で、EATALYの雑多なマーケット感がなく少し残念である。東京駅にあるEATALYは雑多なマーケット感があるのに銀座SIXのようなファンシー層を狙ったような商業施設に入るとこれほど小ざっぱりしてしまうのだろうか。最近、本当にイタリアに住みたいと思っている。結局語学が出来るだけで人間なんてものは仕事が出来てしまう、そんなレベルにあるのである。仕事の選択肢の幅が圧倒的に増えるのだ。早速イタリア語を勉強しようと思い、帰りの電車で黙々と続ける。1 日40分の出勤時間をうまく語学の勉強や本を読むことに使えると仕事に行くのもそれほど苦ではないなと思うと同時に、田園調布で毎日過ごしたいとも思っている。
家に帰り、リガトーニを茹で、トマトソースパスタを食べる。食後に、アイスを食べ、クリント・イーストウッド監督『チェンジリング』を鑑賞。また映画を観ながらウトウトしてしまい、聖子ちゃんを不快な気持ちにさせてしまう。一方的に不快な空気を出す彼女の行動に、なんだか、悲しくて悔しくて涙が出てきた。もちろんぼくの行動が事の発端ではあるが、ぼくは本当にこの女性と一緒にいる気があるのだろうか。ぼくの行動が全く存在しないほどに、傲慢だし、指図はするし、全てやってもらえると思っている節があるし、ぼくのことを見下すようだけれど(彼女曰く、ぼくの日々の行動は見下されるに値するというのだ)、都合が悪いことは誤魔化す。そんな風にひどいことが多いなと思うけれど、ぼくは彼女が大好きだ。媚びないところと、絶対的な感覚をもつ一人の女性として信頼している。ぼくのことをオムくんと呼ぶ数少ない人の一人で、10代から繋がるぼくを知る数少ない人間なのである。
そんなに、嫌なことは言い出すと山ほどあるけれど、そんなことくらい耐えられるだけの人間でいたいと思うし、それがなんだというのだ。媚びるが全くないし、毛嫌いするものに対しては破滅するまで叩き潰すような人間ではあるのだが、それでも愛している。
人間それぞれに悪癖はあるし、それに反抗せずに受け入れてなおいつも通りの態度でいる。ぼくはそういう人間でありたい。どこまでもマゾヒスティックに悲観的考え方を持っていても社会に対して争いを持ち込むことはしたくない。
ぼくは、彼女が色々とし易いようにサポートしているつもりなのだけれど、それは決して彼女にとっては感謝に値することではなく、無力であり、それ以上にぼくの悪癖が気に入らないというのである。
結局、他人なんてそうなのである。人がその人のことを思って行動していたとしても、視点が違えば、それは当たり前になり、感謝なんていうものは存在しなくなるのである。
ぼくが、いかに多くの悪癖を持っていて、それを自分で理解し改善をしようとしても、それを補うためにカバーしてもそれは彼女にとっては気持ちを潤すものではなく、ただぼくの悪癖だけが気になるのである。
それでもなお彼女と人生を過ごしたいと一方的に思っているのだから仕方ないのかもしれない。それは、ぼくのエゴか、それともそのエゴが超越した先に人の未来があるのか。自己満足か、もしくは妥協なのか。自分の焦りか、彼女への憧れか、彼女への同情か。
プロポーズをしようと思ってからというもの、ぼくの彼女に対する想いはすごく強くなり、言動が変わったように感じている。それが彼女にとっては、ペテンであり、嘘のようであり、媚びている機嫌取りのように感じられるのだろう。決してそうではなく、ぼく自身の心境の変化というよりかは、昇華という感覚に近いか。
ないと不安になり求め、ありすぎると嘘臭くなり必要としなくなる。人生の多くの物事はそんなもんであるかもしれない。
彼女は、ぼくがどんな風なことを考えているかなんてどうでも良く、そんな心境を知らず、彼女はぼくに毎日のように文句を言い、不快な態度を見せてくるのである。
それでも、ぼくは一緒にいるということを選択する。まだまだ人生は長い。それでもなお、一緒にいることを選択するのである。
この文章は、ネガティヴに捉えられるだろうが、愛なのである。愛しているだとか好きだとかそういう言葉には形容出来ない愛情表現なのである。
家に帰り、リガトーニを茹で、トマトソースパスタを食べる。食後に、アイスを食べ、クリント・イーストウッド監督『チェンジリング』を鑑賞。また映画を観ながらウトウトしてしまい、聖子ちゃんを不快な気持ちにさせてしまう。一方的に不快な空気を出す彼女の行動に、なんだか、悲しくて悔しくて涙が出てきた。もちろんぼくの行動が事の発端ではあるが、ぼくは本当にこの女性と一緒にいる気があるのだろうか。ぼくの行動が全く存在しないほどに、傲慢だし、指図はするし、全てやってもらえると思っている節があるし、ぼくのことを見下すようだけれど(彼女曰く、ぼくの日々の行動は見下されるに値するというのだ)、都合が悪いことは誤魔化す。そんな風にひどいことが多いなと思うけれど、ぼくは彼女が大好きだ。媚びないところと、絶対的な感覚をもつ一人の女性として信頼している。ぼくのことをオムくんと呼ぶ数少ない人の一人で、10代から繋がるぼくを知る数少ない人間なのである。
そんなに、嫌なことは言い出すと山ほどあるけれど、そんなことくらい耐えられるだけの人間でいたいと思うし、それがなんだというのだ。媚びるが全くないし、毛嫌いするものに対しては破滅するまで叩き潰すような人間ではあるのだが、それでも愛している。
人間それぞれに悪癖はあるし、それに反抗せずに受け入れてなおいつも通りの態度でいる。ぼくはそういう人間でありたい。どこまでもマゾヒスティックに悲観的考え方を持っていても社会に対して争いを持ち込むことはしたくない。
ぼくは、彼女が色々とし易いようにサポートしているつもりなのだけれど、それは決して彼女にとっては感謝に値することではなく、無力であり、それ以上にぼくの悪癖が気に入らないというのである。
結局、他人なんてそうなのである。人がその人のことを思って行動していたとしても、視点が違えば、それは当たり前になり、感謝なんていうものは存在しなくなるのである。
ぼくが、いかに多くの悪癖を持っていて、それを自分で理解し改善をしようとしても、それを補うためにカバーしてもそれは彼女にとっては気持ちを潤すものではなく、ただぼくの悪癖だけが気になるのである。
それでもなお彼女と人生を過ごしたいと一方的に思っているのだから仕方ないのかもしれない。それは、ぼくのエゴか、それともそのエゴが超越した先に人の未来があるのか。自己満足か、もしくは妥協なのか。自分の焦りか、彼女への憧れか、彼女への同情か。
プロポーズをしようと思ってからというもの、ぼくの彼女に対する想いはすごく強くなり、言動が変わったように感じている。それが彼女にとっては、ペテンであり、嘘のようであり、媚びている機嫌取りのように感じられるのだろう。決してそうではなく、ぼく自身の心境の変化というよりかは、昇華という感覚に近いか。
ないと不安になり求め、ありすぎると嘘臭くなり必要としなくなる。人生の多くの物事はそんなもんであるかもしれない。
彼女は、ぼくがどんな風なことを考えているかなんてどうでも良く、そんな心境を知らず、彼女はぼくに毎日のように文句を言い、不快な態度を見せてくるのである。
それでも、ぼくは一緒にいるということを選択する。まだまだ人生は長い。それでもなお、一緒にいることを選択するのである。
この文章は、ネガティヴに捉えられるだろうが、愛なのである。愛しているだとか好きだとかそういう言葉には形容出来ない愛情表現なのである。