ビクトール・フランクル『夜と霧』を読み進める。
お昼は、歌舞伎そばへ。今日ついに蕎麦を心地よくすすりながら食べる良い塩梅を見つけてしまった。その音に酔いしれ、ランナーズハイのような状態で蕎麦をすすっていた。
夜は、焼きそばを食べる。今日は豚肉を買った。が、昨日から自分が作る焼きそばに何かが不足しているなと思っていたが、キャベツである。焼きそばにキャベツは必須である。
その後、オリンピックのサッカーU-24日本vsU-24フランスを観賞。快勝であるが、主力選手のいないフランスに快勝して本当にフランスに勝ったことになるのだろうか。自分たちの実力にもう少し冷静なるべきだろうし、こういうところにもぼくが日々抱えている疑問は潜んでいる。もちろんぼくは選手本人でも彼らと話したわけでもないし、監督でもないのだから彼らが何を感じているかは知らない。
メディアは煽る、フランスという大国から勝利を得たことは言葉だけを取ると素晴らしいことであり、大きなニュースになり得るし歴史にもきちんと残すことができるだろう。しかし、そこにある実体はどうだろうか。8名の選手がクラブによって参加出来なかったのだから、それはオリンピックとはいえ、BかCチームである。それが本当にメディアが煽るほどの実力なのだろうか。
と、同時に歴史をしっかりと刻んでいくことは、後世に感覚だけは継承されるとも考えられる。オリンピックでフランス代表に4-0で快勝したという結果だけは常に残り、その感覚は続いていくサッカー史においては非常に重要になるだろう。結果は、今ある努力や押し付けられてやらされていることを信じるという事を強くしてくれる。そういう意味では大切である。信じて進むことの重要ささえも考えさせられる。
それが、Bチームだろうと正式な大会で行われた試合であれば関係ないとも言える。ただ、今のチームの能力を図るのにはこの結果は何にもならないというのである。
メディアというものは、何をするために存在しているのだろうか、人の感情を揺さぶり、時に不安にさせ、時に高揚させる。それがうまく機能していないのを見ているとなんだか不思議な気持ちにさせられてしまう。メディアが偏りを持ち事実を誇張に誇張を重ねた先にあるものはなんだろうか。海で喜んで泳いでいたら気付いたら周りには誰もいなくて足もつかないほど深いところに来てしまっていたという状況にならないだろうか。
実体のないものが増えていくと自分たちの感覚と実体はずれていくことになる。
IOCの一連の問題だってそうだ。バッハ代表がどう何を考えているのかは知らないけれど、全てが誇張されたパフォーマンスであり、そこに実体など存在しない。彼の行動を見ていると「思考と行動の不一致」という言葉がパーフェクトと思うほどに似合う。
そんな日々の中に、起きる細かな出来事に惑わさずに、個人に立ち返ると、思考と行動を一致させていくしかないのである。
お昼は、歌舞伎そばへ。今日ついに蕎麦を心地よくすすりながら食べる良い塩梅を見つけてしまった。その音に酔いしれ、ランナーズハイのような状態で蕎麦をすすっていた。
夜は、焼きそばを食べる。今日は豚肉を買った。が、昨日から自分が作る焼きそばに何かが不足しているなと思っていたが、キャベツである。焼きそばにキャベツは必須である。
その後、オリンピックのサッカーU-24日本vsU-24フランスを観賞。快勝であるが、主力選手のいないフランスに快勝して本当にフランスに勝ったことになるのだろうか。自分たちの実力にもう少し冷静なるべきだろうし、こういうところにもぼくが日々抱えている疑問は潜んでいる。もちろんぼくは選手本人でも彼らと話したわけでもないし、監督でもないのだから彼らが何を感じているかは知らない。
メディアは煽る、フランスという大国から勝利を得たことは言葉だけを取ると素晴らしいことであり、大きなニュースになり得るし歴史にもきちんと残すことができるだろう。しかし、そこにある実体はどうだろうか。8名の選手がクラブによって参加出来なかったのだから、それはオリンピックとはいえ、BかCチームである。それが本当にメディアが煽るほどの実力なのだろうか。
と、同時に歴史をしっかりと刻んでいくことは、後世に感覚だけは継承されるとも考えられる。オリンピックでフランス代表に4-0で快勝したという結果だけは常に残り、その感覚は続いていくサッカー史においては非常に重要になるだろう。結果は、今ある努力や押し付けられてやらされていることを信じるという事を強くしてくれる。そういう意味では大切である。信じて進むことの重要ささえも考えさせられる。
それが、Bチームだろうと正式な大会で行われた試合であれば関係ないとも言える。ただ、今のチームの能力を図るのにはこの結果は何にもならないというのである。
メディアというものは、何をするために存在しているのだろうか、人の感情を揺さぶり、時に不安にさせ、時に高揚させる。それがうまく機能していないのを見ているとなんだか不思議な気持ちにさせられてしまう。メディアが偏りを持ち事実を誇張に誇張を重ねた先にあるものはなんだろうか。海で喜んで泳いでいたら気付いたら周りには誰もいなくて足もつかないほど深いところに来てしまっていたという状況にならないだろうか。
実体のないものが増えていくと自分たちの感覚と実体はずれていくことになる。
IOCの一連の問題だってそうだ。バッハ代表がどう何を考えているのかは知らないけれど、全てが誇張されたパフォーマンスであり、そこに実体など存在しない。彼の行動を見ていると「思考と行動の不一致」という言葉がパーフェクトと思うほどに似合う。
そんな日々の中に、起きる細かな出来事に惑わさずに、個人に立ち返ると、思考と行動を一致させていくしかないのである。
だけど、歴史はこうやって出来ているのだろうと思うと、ぼくたちが勉強してきた歴史というものもこんなふうになっているのだろうか。信じるべきものは何か。それは歴史もそうだけれど、個人による言葉や記録なのである。きっとそうだ。誇張やオーバーな表現のない思慮深い言葉。