2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2019.8.21

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2019.8.21

2012年以来、聖子ちゃんのいない夏は初めてで、ぼくはそれにきっと困惑しているのである。
だけれど、幸いなことにこの夏ぼくには少しばかり友人が出来た。彼ら、彼女らはぼくの人生において大切な友人になった。
1人は数日前に入院してしまい、もうぼくの夏には存在しない。
2人は、奇遇にも同じタイミングで明日から夏休みを取るらしい。そして、2人もこの夏の記憶に残ることになる。
明日で高校野球は終わるし、ずっと読めずにいた村上春樹『海辺のカフカ』の最後のチャプターも起きぬけで読んだ。
村上春樹氏の作品なんて今読むものかと言われることもあるのだけれど、ぼくにとっては今が素晴らしいタイミングだと思っているし、このタイミングで読まなかったらきっとこれほどまでに彼の作品の魅力に取り憑かれなかっただろう。
今は、彼のスタイルだけを感じたいと他の文章はほとんど読んでいない。
習得したいというのではなく、彼の世界の中へ行きたい。(というのもちょっと違う気がするけれど、それ以上にしっくりくる言葉がいまのところない)

朝起きると、昨晩残したたくさんの洗い物が残っていた。ぼくはこの感じが割と好きで、起き抜けに昨晩のことを思いながらガシガシと洗い物をするのである。「ああ、また溜まっている」とうんざりするとともに喜びも感じる。ぼくが好きな、めんどくさくてうんざりする女の子と感覚的には近い気もする。
毎度、友人知人を食事に誘っては洗い物をさせないのは、きっと自分がこうやって次の日の朝に楽しい晩餐に想いを馳せるのが好きだからなのだろう。
そうやってキレイになっていくお皿やカトラリーには汚れではなく、センチメンタルな夏の記憶と愉快な思い出だけが残っていくのだ

上は、朝の電車で忘れないようにと書いた文章で、その後出勤し、同僚の渡邊ユイさんとお昼に出れたらいいねと話していたけれど、タイミング合わず。村上さんと後輩古滝さんとAux Baccanalesへ。
お昼の後店頭にいるとまたパニックになり、トイレにこもる。ちょっと苦しくなり飛び出して日比谷公園へ。
もう日比谷公園に着いた時には、「さてどうやって仕事場に戻ればいいのか」と気持ちは落ち着いていたものの、ゴロッとしながら蝉の鳴き声を聞いて、まあこういう人生もありだよなと気楽に考えていると眠りに落ちる。17時前に起きた。職場に戻ろうとするも、動悸が激しくなり、銀座ウエストでとりあえず休憩。もうその時点で自分の行為にバカバカさと情けなささえ覚えていた。
トリガーのようなものがストンと外れる感覚があり、これまでならばそのトリガーは割と硬く頑丈であったのでちょっとのことでは外れなかった。しかし、今は些細なことでストンと外れてしまう。癖になっているのだ。
心配した先輩数人と、同僚たちが声をかけてくれた。自分も経験があると言ってくれる人もいた。
ぼくにも悩みはあるから大丈夫だよと言われても、別にみんなが悩みを持っている社会が素晴らしいと思っていないので何の心の助けにもならないのだ。優しさなのか。