2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2025.10.4

ハーレムの郊外で電車を降り、アムステルダムへ自転車で向かう。途中、オーガニックファームFruittuin van Westに寄る。
アムステルダム市内に入ると、またトラムが止まっていて、人々が降車してゾロゾロと歩き始めていた。こんなに寒くて風が強いのに、である。移動手段ではなく、寒くて乗り物に乗った人も、疲れたので乗り物に乗った人もいただろう。毎回このような姿を見かけては、なんとも言えない気持ちにさせられる。交通網が破綻している街は、いつまでこの状態を続けるのだろうか。それはキャパシティをオーバーしているようにも見えるし、そもそも機能させることを諦めているようにも見える。対処を乗客に委ねているようにも見える。問題を起こさないようにすることもなく、問題が起きたら起きた時に考える、起きてしまったら人々は対処するしかない、ということを前提にしたような構造があるようにしか感じられない。もちろん何もパーフェクトな状態を保ち続けるということは難しいだろうし、何かを始めるのに準備が整ったなんてこともないだろう。始めてしまった方が簡単である。それでも、パーフェクトな状態を目指すことが重要であるとぼくは思うのだが、始めてしまうことは維持することよりも簡単なので、始めてしまっているやっているだけで、「問題はとにかく問題が起きた時にしか解決できない」のだ、と諦め半分に考えているのだろうか。その反応型の対処法がいかにもオランダらしい。大きな問題にはなっていないのは、結局問題を被った人たちが各々で解決しているだけなのだ。それはマインドセットとか切り替えとか、イライラしないような心にするとか、動ける準備をしておく、とか、そんな人間らしい対処法である。それでも彼らは機械を動かすために働いている人たちである。
休憩がてら立ち寄ったお店で久しぶりにケーキを食べたが、あまり美味しくなかった。なぜ人はケーキを食べる必要があるのだろうかと思った。ぼくは20代毎日のようにケーキを食べていたし、実家でもケーキを販売しているのに、そんな風に思ってしまうことは親不孝な気もしたが、それでも自分の感じたことを正直にここに記すならば、久しぶりに食べたチョコレートケーキ、それを食べるということ自体が不思議に思えてしまった。Huis MarseilleのTimに写真集を見てもらう。気に入ってくれている。寒く風も強い大雨の中を自転車で漕いでいたので、ずいぶん疲れたのか新しいアイデアが思い浮かんだので考え事をしていたら電車で本を読みながら寝てしまった。近鉄電車のように暖かいシートならまだしも、オランダの汚い電車の車内で、だ。19時に帰宅
この街で、トラムが止まっているのも、ケーキが美味しくないのも、結局、それが匿名の人のための行為でしかないからではないか。個人に対する親身な表現を目指したい。

2025.10.3

 数独を終える。一つ終わらすのに2時間も3時間も費やしているが、脳の隙間に溜まった膿というか汚れを取るような感覚があり、爽快である。
昨日一昨日と書いたようなことを抱える今、変えるべきは思考ではなく、脳であり、脳が活発でないと思考も身体も全てに影響を及ぼしている。腸の調子が悪いとみんなが感じるのと同様に脳も臓器としての機能を果たしていない。9月からいくつかの実践を行っていて、逆さから文字を読むこと、数独、iPhoneを触る時間を決める、週末以外のInstagramアクセス制限、などかけば色々あるのだが、自分を実験台にして自分を形作る。生活実験と実践こそが、ぼくが最も興味のあることである。
脳を動かすようにすると身体の疲労を以前ほど感じることがなくなってきたように思うし、高揚感を感じる機会も多くなった。一人で歩きながら笑ってしまうことも増えた。

2025.10.2

 昨日の続きだが、自己顕示欲、虚栄心というと、なかったことをあったかのように話すことを挙げているようにも聞こえるが決してそうではなく、たとえばある事実を話さないという決断さえもが、虚栄ではないかということである。言わないことを持ち合わせた人間、言えないことがある人間など山ほどいるだろうし、もしそれが配慮や建前の上で成り立っている社会や人間関係なのであれば、それ自体をぼくは割と好むという側面もあるが、もし言わないという決断さえもが虚栄心と握手を交わした状態であればどうだろうか。そんな風に構成されている人間社会では、もはや現実など存在しないのではないだろうかとさえ思えてならない。隠すという行為が、 配慮なのか、虚栄心なのか、自分自身にしかわからないことである。
「日記という体」を持っているとはいえ、その日に起きた出来事全てを書く必要もない。

2025.10.1

「自分の生活や思考を言語化し公開することは自己顕示欲や虚栄心の道具になっていないか」ということに囚われると、文章を公開するという行為自体がとても曖昧で時に不快な行為に感じられる。
ぼくは、2100年の生活学には、事実だけを記しているわけではないことを公言してきたが、ここで書き記されてきた出来事は、実際に起きたことも実際に起きたことではないということの境界性を曖昧にしながら、同時に実際に起きたことに加えるかのようにぼく自身がそうあって欲しいという願望をも現実で起きたことのように「日記という体」を保ちながら記してきたわけだ。しかし、ここにきて、そうあって欲しいという願望と実際に起きたこととを曖昧に書き続けるということは、同時に、自分自身が自己顕示欲や虚栄心とも強く握手を交わしているような疑念が浮かんできたのである。これがぼくがここに文章を公開することの危険性を深く受け取っている理由である。
2100年の生活学を通じて、ぼくが日常や生活、思考、スタイルについて書き記す言葉はマニフェストや宣言になりかねない。いや、すでにそうなってしまっていて、自分自身の行動を制限し始めているような気さえするのである。
そうなってしまった今、ぼくの日常というものは自己顕示欲や虚栄心を基にしたものになりかねないし、宣言によって律するというよりは自身の自由な体たらくささえをも含んだ日常を失いかねないのである。人の生活は、そうはあってはいけない、そうあるべきではない。今日話したことと明日話したことが違うとしても、体たらくさえも、それは一人の血の通った身体を持った人間なのだから全く問題ないはずなのだ。
想像力や願望というものはある種の虚栄心というものを含まずに語られることができるのだろうか。願望といえば、また虚栄心とは意味合いが違ってくるのだろうか。

2025.8.31

ロッテルダムでDepot Boijmans Van Beuningenに行ったが、ゲンナリするようなものだった。
世界で初めて所蔵されているコレクションを見せるという試みだが、見せなかったところを内臓から骨まで全てお金に変えてやろうという感覚。
何を見せ、何を見せないか。ことあるごとに、ぼくはオランダと相性が非常に悪い。
思いついたことを遂行するのが得意な民族であるとは思うし、未来や社会への影響を鑑みずに新しいことを生み出せるだけの土壌があり、それは歴史背景、遺産、建造物なども少ないことなども含まれるが、「自由」なアイデアで行動できるなのだろう。新しいことが起きる状況ということは社会が健全であるとは感じられるが、実際にここに住み、人々と接していると決してそうではなく、ここには健全な人間の営みや感情や雑念、無駄が存在せず危険を感じてしまう。ルールや機械化された社会の中で「自由」という言葉を、ある種ロマンティサイズしているのではないか。何を言おうととにかくぼくの好みに合わないというだけである。

2025.8.30

 聖子ちゃんと、記念の祝いでロッテルダムのRestaurant LUXへ。ずっと来たいと思っていたが、やっと来ることができた。初めてくるのにどこか懐かしく、ぼくたち二人が自分の身を置いておきたくなるようなお店で、食事をしていて終始心が開けていくのが感じ取れた。
内装も立て付けも食事も接客も、ぼくにとってはちょうどよく、時代にとらわれずブレない芯とユーモア、根源に進歩的な雰囲気を感じるお店だった。なんでもないと言えばなんでもないような、そんな素晴らしいバランスをぼくは常に好んでいる。それに、息子や娘を連れて食事に来るようなレストランがぼくは好きだ。
こうやって記念日だからとレストランで食事が出来たり、何か特別なことができるというのはとても幸せなことである。

2025.8.29

 やっと日の出や日の入りに身体が落ち着くようなタイムラップになってきた。この田舎町の日の入りは20時30分。
朝6時50分ごろに目が覚めると、まだ建物も室内の家具も寝ているような色姿をしている。窓を開け口をゆすぎ、お白湯を飲み、コップ一杯の水で割ったアップルサイダービネガーを飲む。
ポラロイド写真の現像中のように、まだなんとなく色ができっていないような風景の中で、身体が空気に調和していくような感覚を感じられる。家具も、外にいる建物も木々も、まだ声が出なさそうな表情をしている。
夏の間は、日の出とともに目覚めた建物たちはぼくが起きる頃にはもう目覚めていて、大声で話しかけてくるような気がして、まだぼくは起きたばっかりなんだけれどと身体を無理やり揺り起こすような感じだった。今は、自分の身体の目覚めるスピードが街の気分と合っている。そんな中、今朝の瞑想中に、ゾクゾクと身体の中に何か大きな塊が動くような感覚を受けた。何か変化が生まれ始めているのかもしれないと思うには、浅はかすぎるか。もしくは、ぼく自身も何か起きて欲しいというきっかけが欲しいのか、セレンデピティを待ちすぎているような人生は幸せだろうか。