2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.3.24

 海のある田舎町に戻った。この1週間空は青かったが、朝起きて寝室のカーテンを開けても空はどんよりとしたグレーだった。むしろどんよりすらもしていない当たり前の顔をしたグレーだった。
ぼくの家のリビングには天井までの大きな窓があるのだが、そこにはカーテンレールもないし、それほどカーテンも好きではないので、何もつけていない。それにそれほど日差しが強く差し込むこともない。それでも今朝はカーテンをつけた方がいいのだろうかと思った。それは、具体的に何かを遮るものとしてのカーテンであり、隠すものとしてではない。こちらに何があるのか、ではなく、あちらがわにはただ光があることだけが重要な気がした。昼食前に聖子ちゃんと二人で家のあたりをふらふらと歩いた。頭上に広がるグレーに加えて、体が縮こまるような寒さだった。ここは本当に人が住む場所なのだろうか。人々はこの土地に生まれたことで、ここを故郷と言い訳をしているのだろうか。自身の身体からの言葉ではなく、思考によって作り上げた言葉にしがみついて生きているのだろうか。ぼくは、学校も仕事も、何の当てもなく、移住先としてこの海のある田舎町を選んだわけだが、ぼくの野生の勘がずいぶん鈍っているということだろう。「豊かであること」を美徳とした時代と国、そして家族に生まれたことが今ぼくがこの海のある田舎町で苦悩している理由だろうか。そこに当たり前に山があり、太陽があり、海があった。厳しさの中でも、道徳や流儀を好み、基本的なものをさらに美しくするために目の肥えた意欲的な人間が創意工夫したものや哲学を持って作られたもののある国で育った。 そんなものがなければ、今ぼくはこんなに苦悩することもなかったのだろうか。未来は、ますます苦しくなるのだろうか。そんなことを考えながら歩いていると、隣に昨日までと全く違う物憂いげな表情があった。「元気ないね」というと、「昨日までは朝からきちんと髪を整えて、シャツを着ていたのに、今日は朝からフーディを着ている」と言われた。

2026.3.23

 朝6時に起床し、カメラを持って街を歩く。昨日は6時半に起きたにも関わらず、すでに遅くなっていたので、さらに早く起きた。と言っても6時半が早いと思っているのは、毎日8時に起きているぼくにであって、珈琲屋やパン屋、アナウンサーなんかはもっともっと早く起きている。
街を歩いていると、ある時期からこの街は観光客を呼び込むことでしか、街を維持することができなかったのではないかと思った。細く静脈のように広がる運河があり、建物がその景色を遮るようにびっしりと立ち並ぶこの街の構造や環境から、最も簡単に劣悪な生活環境や治安になるだろう。観光客を呼び込むことでしか治安を維持することができなかったのではないか。そんなことを考えると、ぼくはこの街が一時期からどれだけ観光で失敗したと言われようとも、それがその街を維持するために必要であった美しい国の彼らのことが気の毒になる。もちろん同情することは正しいことではないだろう。
午前中にPeggy Guggenheim Collectionへ。その後、誰も何の不安も抱かないほどに快晴だったので、ふらふらと歩いているとGelateria Nicoがあり一服。今月オープンしたばかりのレストランDo Faraiでカルチョーフィのフリットと、ボッタルガのスパゲットーニ、トスカンケールとフィオラーロのスパゲットーニ。その後、Brunoとマイさんと街を散策。Pasticceria Rizzardini、Yali Glassなど。
BrunoGoogle mapを紙の地図を使うように使っていて、ぼくがいかにただ歩く行為をタスクのように自分自身に課しているのかと思った。誰もそんなことは思わないかもしれない。昨日見た女性とは真逆の思考を持っていた。

2026.3.22

 朝6時半に起床し、カメラを持って街を歩く。8時過ぎにホテルに戻り、朝食。シスターが朝食を用意してくれていた。
Laguna B。その後、Piazza San MarcoにあるNegozio Olivettiへ。行列が出来ていて、不思議に思ったが、無料開館日だった。列の前は40代半ばのカップルが並んでいた。男性はのんびりした雰囲気だったが、女性は細かそうな服装をしていて、背中からもその性格が伝わってくるようだった。ちらっとiPhoneを覗き込むと、Google Mapが開かれていた。そこには、A 地点からG地点までびっちりとその日訪れる場所が経由地として記されていた。経由地を追加できるのは知っていたが、A地点からG地点まで一気に入力している人を初めてみたので、驚いた。その使い方が便利なのかはわからなかった。今はC地点だったようで、よく聞こえなかったが「D地点に行くには10分かかる、ここで待つ時間はない」というようなことを話していた。数分悩んでから、二人は列を外れD地点に向かった。その1分後、突然列は一気に動き出し、ぼくは館内に入った。そして、Carlo Scarpa建築空間を楽しんだ。コンパクトなショウルームなので、15分くらいで充分だった。Google Mapに縛られた旅をする二人を憂いた。
10年前に聖子ちゃんとベネツィアに来たのだが、その時は途中から別行動だった。ピアッツァに面したピッツァショップでピッツァをテイクアウトし、ピアッツァのベンチで食べたのだが、その時ぼくがオリーブオイルを彼女のBurberryのコートにこぼしてしまった。今では正直詳細は全く覚えていないのだが、その時ぼくは謝らず大喧嘩になった。彼女はその場を立ち去り、一人で街を散策した。あの頃ぼくたちはパリに住んでいて、ぼくはiPhoneとは別にガラケーを持っていた。簡単にSIMフリーにするような時代ではなかったような気がする。だから地図は全て彼女任せだったし、wifiがなかったらぼくのiPhoneは何でもなかった。首からはKyocera Slim Tをぶら下げていた。そんな街で地図もないので仕方なくふらふらしていた。特にぼくは街に行っても歩いてお茶する以外にやりたいことがない、それは今でも大きく変わらない。どのくらい経ってからだっただろうか。おそらく2時間ほどしてからだった気がするが、そんな風にのんびりした気持ちで歩いていると、迷路のような街の中で偶然彼女を見つけた。嬉しいことに彼女はこちらに全く気づいていないようだったので、ぼくは尾行することにした。首にはちょうどKyocera Slim Tがぶら下がっていた。突然カチンコが鳴らされ、探偵のような気持ちになり、映画俳優がいかにもな姿で私立探偵を演じるようにぼくもあの街でカメラを片手に私立探偵を演じた。時にウィンドウショッピングをし、時に壁を興味深そうに眺めたり触ってみたり、時に全く知らないカフェに入った。その時の写真はまだ発表したことはない。
今回10年前にそんなこともあったので、同じピッツァショップを探してみたが、見当たらなかった。Pizza2000という名前だったというのだが、そのピアッツァにはなかった。違うピッツァショップがピアッツァにはあった。違う場所に位置したPizza2000でマルゲリータを買って、10年前と違う広場でピッツァを食べた。何かあの時に忘れ去ってきたものを拾いに来たようなつもりだったが、拾ったものはあの時に忘れてきたものではなかったような気がする。ピッツァの箱に描かれていた男性も箱から立ち去り、代わりにレモンの木があった。
かなり疲れたので、ホテルに戻り、夕方15分瞑想。シャワーを浴びて再び街へ繰り出した。Bea Vitaでドリンク。夜、ホテルに帰ってiphoneの歩数計を見たら33,000歩を超えていた。

2026.3.21

 Veronaに行き、その後Veneziaへ。夜は、Vini Da ArturoでHaniさんの接客を浴びる。久しぶりに人が律することと、その即興性の中に曖昧に存在するリズム、それからウェイターとお客の信頼関係やお互いのユーモアによってお店が成立しているようなお店に来れてぼくは誇らしくなった。来たお客さんを楽しませるだけではなく、誇らしくさせるお店というのはとてもいいと懐かし気持ちにさせられた。このところ全くそんな気分になっていなかった。
お店はパンパンだったが、Haniさんが一人でサービスしているので、手持ち無沙汰にならないようにと、隣に座っていた一人のドイツ人男性にはドイツ語で書かれたビリビリなるほど読み込まれた哲学書を渡し、ぼくたち日本人にはガイドブックを渡し、アメリカ人には何かに表彰された?のか名誉な新聞記事を渡していた。国によって安心の仕方や物を見る基準が違うのか、信じるものがちがうのか。とても考えさせられるサービスだった。夜は、修道院に泊まる。

2026.3.20

 朝Achille Castiglioni Foundationへ行き、Triennale di Milanoで伊東豊雄キュレーションのアンドレア・ブランジの展覧会。Triennale di Milanoの庭でランチ。
VIASATERNAでエリザベッタ・カタラーノの展示を観て、Marchesi 1824で一服し、aesopでアカネさんと話し、夜はJackieとRistorante Piero e Piaへ。
アカネさんとJackieどちらとも20163月、10年前に知り合った。夜、Coxでライブをみて26時ごろホテルに戻った。10年前もスクワットした建物で行われていた大規模展覧会に夜に行ったし、今回もスクワットされた場所に作られたライブハウスに来た。ミラノはミラノだ。アカネさんもアカネさんだし、JackieJackieだった。10年経ってもそれは全く変わらない。

2026.3.19

 10 Corso Comoへ行き、カフェをしたがとても懐かしい気持ちになった。19歳の時に、ジョウキョウがミラノに留学していた。オジーと三田くんとまっさんと4人でジョウキョウに会いに行き、そのままベネツィア、アムステルダム、パリと旅行をした。20日くらいだったと思うが、いまだに何かことあるたびに思い出す。Porta Garibaldiは大きく変化したけれど、それでもそこにあった空気はぼくの中にまだ懐かしさを与えてくれるし、今新しい風景を見る時にも嫌でも入り込んでくる。AmbraちゃんとOrsonero Coffeeでカフェをして、Giardini Indro Montanelliを散策。公園内にあったカフェテラスで心地よい日差しを浴びながらドリンク。Trattoria Masuelli San Marcoでディナー。
イタリアに来てまだ2日だが、もうすでに人々が人と共存していることを認識していると思った。オランダにいるとこちらがにこりとしてもにこりともされない。それはぼくのせいかもしれない。しかし、住む土地によって人間が全く違うことに驚かされる。そして、イタリアに住む人は日本人が好きそうである。それはどの都市に行っても毎回感じさせられるぼくの個人的な雑感。
誕生日だったのに、それについて書くのを忘れた。37歳になった。父が37歳の時にはぼくは9歳だった。A table!がちょうど始まった頃だっただろうか。Cafe patioというカフェや美容室や花屋が同じ建物にあるコンプレックスのようなものをしていて、そこによく遊びに行っていたのを覚えている。ぼくには子供がいないし、仕事もまだまだ安定していない。まだ20代の大学を卒業したてのようなことを延々としている。時代も違うし、人と比べることもできない。それがたとえ家族であったとしても、比較にはならないだろう。それでも時々自分の父の年齢をふと思うことがある。今日、そんな父から「何歳になったんや」とメッセージが来たが、冗談なのか本気なのかわからないが、自分の子供の年齢がわからないというのはどういう感覚なのだろうか。悲しいとか、父を悪くいうとかそういうことではなく、子供のいないぼくには理解できない感覚で興味深かった。親の年齢がわからないのは、子供が親よりも後に生まれているからで、なんとなく理解できるが、親が子供の年齢がわからないのは、なんだか不思議である。まあ、同時に、1192年に鎌倉幕府が誕生したとか、1868年から45年間明治時代があったとか、そんなことは、後発的に覚えられるので、親の誕生日の方が子供の誕生日よりも覚えやすい気もする。もしくは、「あれ?何年に中学を卒業したっけ」くらいの感覚かもしれない。ぼくもいつも中学を卒業したのがいつだったか思い出せない。卒業したが、そのまま同じ学校だったからかもしれない。

2026.3.18

朝6時に家を出て、ミラノへ。昼過ぎにPiotrのスタジオIMAGE CULTURE MILANOでPiotrと彼女Yegiと話す。夜、Teatro alla Scalaでウェイン・マクレガー『Chroma』を鑑賞。『Chroma』は、ジョン・ポーソンによるセットデザイン。劇場が四角であることを基本とし、内側と外側、入口と出口、光と影、空虚と充満といった建築的なモチーフを用い、ダンサーの身体を通して探求される空間的な緊張感に満ちたステージであった。光の当て方を変えることによって空間の形状や見え方が劇的に変化していく姿が印象的であった。劇場においては、ダンサーが主体ではなく、舞台があることがダンサーにとって最も重要であるということを示唆しているようにも感じられた。舞台なき劇場は存在しない。
それにしても、Teatro alla Scalaで人間鑑賞するのがどれほど楽しいか、ぼくはカフェでぼーっとしながら人を眺めているのがとても好きだ。これも同様に、Teatro alla Scalaにくる人々がどんな顔をして、どんな姿で、誰と来ているのか、何を考えているのかを想像するのがとてつもなく好きである。人生で初めてTeatro alla Scalaに来たのか、毎公演の初演に見に来ているのか、友人に誘われてきたのか、など。そんなことを考えていると、ミラノにTeatro alla Scalaを作ってくれ、その文化を楽しみながら継承している先人たちに感謝しないといけないと思った。ぼくたちは今のところただただ先人が作り上げてきたものを土足でドカドカと入り込み享受しているだけだ。