いまだに時々レイシストの話になる。ぼくはあからさまな他人までが嫌悪感を感じるようなひどいものは経験したことがないが、特に白人がレイシストの話をするときに大きく違和感を感じることがある。理解がかなり偏っているのではないかと思う。
日本人のぼくにとって、悲しさや怒りではなく最も不快感を残すものは、例えば、イタリアンレストランで働いていて、ウェイターのぼくがパスタをテーブルに運んだ際に、「フライドヌードルを頼んだ覚えはない」と言われることを指すのではなく、白人の現地の友人たちが自転車のライト点灯忘れに対して注意喚起を受けているだけなのに、注意喚起もなく罰金を支払わされることにある。
「しまった、忘れてしまった」という余白なきパーフェクトネスで溢れた社会には、人間が生きる場所となり得るだろうか。ぼくたちはその余白を維持するために声を上げるべきだろうか、その声は余白さえをも埋めてしまいはしないだろうか。多様な人間が余白を保ったまま生きるためには、個々人の誠実さが試されるのではないか。少なくとも日本は、余白だらけであり、赦しという文化が存在する。赦しこそが日本に残る美しい美学の一つであり、これからの社会が最も必要とする感覚ではないだろうか。
日本人のぼくにとって、悲しさや怒りではなく最も不快感を残すものは、例えば、イタリアンレストランで働いていて、ウェイターのぼくがパスタをテーブルに運んだ際に、「フライドヌードルを頼んだ覚えはない」と言われることを指すのではなく、白人の現地の友人たちが自転車のライト点灯忘れに対して注意喚起を受けているだけなのに、注意喚起もなく罰金を支払わされることにある。
「しまった、忘れてしまった」という余白なきパーフェクトネスで溢れた社会には、人間が生きる場所となり得るだろうか。ぼくたちはその余白を維持するために声を上げるべきだろうか、その声は余白さえをも埋めてしまいはしないだろうか。多様な人間が余白を保ったまま生きるためには、個々人の誠実さが試されるのではないか。少なくとも日本は、余白だらけであり、赦しという文化が存在する。赦しこそが日本に残る美しい美学の一つであり、これからの社会が最も必要とする感覚ではないだろうか。