2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2019.4.18

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2019.4.18

また寝起きに絶望感を味わう。
ここ最近、寝る前朝起きた時に、自分は何をしているのだと絶望的な気分になっている。自分が30歳になってこんなことをしているとは思ってもなかった。聖子ちゃんは、もう既に一人で動き出した。ロンドンへ飛び立ったし、彼女は一人で自分の選択をして、自分の人生を形作っている。ぼくは、時の流れに自分の身を任せているだけではないか。
こんなイメージを持っている。上から水が流れ込んでくる。その水をどこに流し込むかは自分で決める。下には沢山のコップがあって、どれに流し込むか、どのくらい流し込むかは自分の自由である。さらにその過程はもっと自由である。
例えるとこうだ。
装置があり、その装置は自由に組み立てられる。どんな風に形つくってもいい。だけれど何も作らなければ上からそのまま水は流れていく。そして、下にあるコップに水は溜まっていく。何もしなくても水は溜まるのだ。だけれど、装置をいじり、組み立てたり、少し取り除いたり、うまくコントロールし、どのくらいどこに貯めたいと思うか、それに合わせてどんな風に形作れば自分の思い通りになるかを考えてそれを自分で作らなければいけない。自分の力以外には何も変化を作ることは出来ないのである。
いま、ぼくは上から流れてくる水をそのまま下に垂れ流しているような人生だなと感じている。
運というのがある。「運」は、どのくらいの量の水が流れ込むかとか、既存の装置がすごくいい形をしているか、とかそういうことである。
ぼくは既存の装置も水の流れる量も多かった人間かもしれない。これからの人生、装置を新しく組み立てていくようなことが求められているように思えてならないのだ。

9時過ぎにフォートウエノへ行き写真をピックアップ。ニュージーランドで撮りためたフィルムでまだ現像できていなかった12本を現像することが出来た。
時間が思いのほかあったので、恵比寿駅前のカフェで一服。マキアート。改装で閉まってしまうらしい。8月に再オープン予定。
今日は朝から絶望的な気分になっていたので、ぼくはどんな風に生きたいか考えた。
too much magazineに出てくる、Sam Chermayeff & Jack Hoganがいつも頭に出てくる。それから、ジム・ジャームッシュのPermanent Vacationのアリー(クリス・パーカー)。村上春樹の小説に出てくる主人公。
彼らから感じる簡素さ、必要なものを持ち合わせているだけの潔さ。そんなことがぼくには心地よい。
聡明であること、熱心であること、自分に正直であること。
そう考えていると、聖子ちゃんはロンドンに住んでいるんだからぼくも彼女の生活に負けないようにしっかりとかっこよく生きたいと思った。マキアートを飲みながらそう感じていた。俗っぽいことは嫌いである、人がしない、してない生活を僕たちはしたいんだ、と二人で言っている。
11.30からDSM
夜は、21時半に終わり、23時前に帰宅。聖子ちゃんと電話して、ロンドンの楽しそうな話を聞く。刺激的な日だったようで嬉しい。
卵黄とパルミジャーノのパスタを食らい、就寝。