2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2024.4.23

昨晩、Alain Tunner監督「Charles, Dead or Alive」を見終わった夜中2時ごろにシャワーを浴びていると何かが排水溝に詰まったようで足元に水が溜まっていた。普段からあまり流れが良くないので、少々水が溜まることはあるので、あまり気にしていなかったのだが、今日は足元に普段と違う水の波打を見て事の異常さを感じた。シャワーを止めると、シャワールームのガラス扉を越えて洗面所まで水浸しになっていた、それはほとんど表面張力のような状態で、扉を挟んだ廊下に水が溢れてしまうところだった。流れが良くないことはわかっていたので、毎日のようにインフィニティードレインの中を掃除していたのだが、その排水溝の先で何か大きいものが潜んでいるようだ。こうなってしまってはもう1滴の水も増やすことができないので、すでに床に張り付くことを諦め、水の力に身を任せ浮かびあがろうとしていたバスマットを救い上げ、滴り落ちる水を洗面器に流した。バスマットから洗面器に流れ落ちる水は、行き場を失いかけたバックパッカーが次の行き先を見つけたかのように喜びに満ち溢れた姿で勢いよく流れていった。バケツですくえるような深さでもないし、映画の後の夜中にそんなに頭が冴えているわけもなく、再びバスマットを水の中に戻した。バスマットは誘導員のように、水を正しい場所に届けることにした。その後も、必死にバスマットを水に浸し水を取って絞り、またバスマットを浸し絞るというのを繰り返しているとなんとも情けない気持ちになったが、放置しても誰かが何かをしてくれるわけでもないし、放置すれば自然と解決する問題でもないので、1時間ほどただひたすらに同じ作業を繰り返した。洗面所の水をある程度まで拭き取ったが、それでもまだシャワールームの中の水は、10代に蓄えた筋肉が落ち始めたぼくの華奢な身体を全身確認し、この1時間の努力を頑なに認めないというような無情な姿でそこにあった。イライラするので地球人とっての最大の味方とも言える重力にぼくの未来を託し、ぼくはそのままベッドルームに向かったわけだが、朝起きてもそのシャワールームの中の水は、道端の仏様のように表情ひとつ変えずに、そこに座っているのだ。もうどうにもならないので、プランジャーを買いに自転車をかっ飛ばした。満月の前日に、満月のように黄色いプランジャーを手にいれ、シャワールームの仏様のぶつぶつの頭に会釈遠慮なくその満月のような黄色いプランジャーを突き刺し、それはまるで満月の夜空のなかでも変わらず座禅を組む仏様の姿だった。ぼくは、自分自身に眠っている力を引き出すためにも昨晩のあの無情な姿を思い出しながら、心を鬼にしてぐいぐいと力一杯に押したり引いたりを繰り返す。5分くらいだろうか、すると排水溝の奥にあったのだろうモラトリアム期の青年が持つ闇のような黒くて大きなものが、そこから動いたのだ。そして、昨晩からの全ての出来事がなかったかのように、いやそれだけではなくここ数日この家にずっと溜まり続けていた全ての影すらをも全てを数秒のうちに、さよならの挨拶もなくいなくなってしまったのだ。ここにあったものがなくなったら、昨晩からの出来事もぼくの思考の動きも、一時間の苦労も何もかも全てがそこにはそもそもなかったかのような気がした。この出来事は、記憶に残らない忘れ去られる過去になっていくのだ。本当は何もなかったのだ、全てはぼくの夢だったのだ。
夜、アーセナルvsチェルシーを観戦して、安部公房『壁』読みながら就寝。

2024.4.21

朝起きると部屋が臭い、生ゴミの袋を閉め忘れたようだ。昨晩、リビングやアトリエの家具を一つのズレもなく整頓し、アトリエの片付けもし、ここで誰も生活していないような風景に戻してから寝たのだが、そのせいか朝起きると家具たちはその息を潜め、取り残された生ゴミだけが自分の存在を激しくアピールするかのように匂いを放っていた。窓を開け、新しい日の空気を取り込む。この街の週末は、平日とは全く時間と空気をまとっていて、もし自分が今日は何曜日かがわからなかったとしても、街を歩くだけで平日なのか週末なのかを知ることができるほどに、この街がまとう空気持つ朗らかさの違いが明らかなのだ。週末の朝は殺気だった自転車の大群を見ることもなければ、犬の散歩の姿すら見当たらない。正午を迎える頃にはテニスラケットをリュックに入れて担いだカップルや、サッカーユニフォームを来て自転車ののる少年たち、電気自動車に乗り込む家族、ワインバーのテラスで週末にだけ日差しを浴びることを許されたかのような女性たち、それぞれが各々の楽しみを自分の喜びだけのものとするかのように過ごしている。
今日も、太陽の光に包まれるような日曜日で天気がいいこともあり、何をするでもなく、日差しの下で午前中は調べ物をしていた。昼過ぎに家の近くに住むデンマークとオランダを拠点とする日本人の作曲家の吉田文さんの家へお誘いいただき伺う。夕方、フルハムvsリバプールを観戦。オランダに来てから、プレミアリーグが1時間の時差で観れるというのがとにかく嬉しくて仕方ない。日本にいると、夜中に起きて翌日に大きく影響を与えていたが、ここにいるとそんなことはない。ただ、日中の時間を奪われるという側面もあり、もっと仕事に集中する時間を取るべきという声も自分の心の中には存在する。なかなか心の声に素直になることが難しいこともあるし、厳しい意見も自分の中には多数存在する。しかし、どんな局面においても、生活の意味とか意義を考えることがぼくにとっては人生だということでもある。生活の意味とか意義を面前にした時、大股開きでシャンゼリゼ大通りの真ん中を闊歩していた仕事というものが、その足の歩みを少し遅らせ、他への配慮を見せるような姿を見せるのだ。
プレミアリーグを見ていると、大きくユーロ諸国というと語弊があるのは重々承知しているが、いかにユーロ諸国が日本含めアジアとかけ離れているかを感じることができる。それは、文化的側面や思考的側面、経済的側面、行動的側面様々であるが、経済文化的側面で言うと、ユーロ内は数カ国を除き時差もないし通貨も同じで関税もない。言葉は違えど、人々は動き続け、それほど大きな壁も感じない。彼らは、グラノーラを作るときにバニラエッセンスやシナモンを少量入れるかのようにアジア文化を取り入れる。あくまでバニラエッセンスやシナモンのように、だ。もちろん、それは日本人がイタリアやフランスの文化を取り入れているのと同様でもあるようにも見られるのだが、個人的にはやはりヨーロッパの文化は保守的である。世界的に、多様性が謳われるようになり、世界全体が同じ方向に舵を切ったかのように見えるが、その実態は多様性ではなく多様化とグローバル化していく中でLost in Translationが起きて、複雑さと多層にも重なる伝統が簡素化されているだけのようにも感じてしまう。そのLost in Translatonをどれだけ減らせるかが、今後の多様化においては非常に重要なのではないか。そんなことを考えながら、ぼくは毎朝この街で日本人を代表するかのように犬の散歩をしている。抹茶を飲み健康的な食事をする平和主義で綺麗好き、ルールを守るという日本人の姿だけではない日本人として。

2024.4.20

ここ数日、全く生産性のない日を過ごしている。生産性のある日とは、どんな日を指すのだろうかと少しばかりは疑問に思うが、そんなことを疑問に思ったとしてもそれでもここ数日は生産性のかけらもない日を過ごしているといえるほどに生産性のない日々だ。生産性がない日々は部屋も荒れていくので、朝から部屋の掃除と整理。聖子ちゃんがシナモンロールを作ってくれた。
Stephen Shore「Modern Instances: The Craft of Photography」をペラっとページを開いて、土曜日の暖かな日差しを浴びながら読み直す。気付けば15時になっていて、昼ごはんを食べるのも忘れていた。
人の言葉を読んでいると、やる気が出てきた。あれほど偉大なStephen Shoreでも、日々の中で写真を撮ることについてずっと考えているのだ。
For attention is of the essence of our power; it is that which draws other things toward us, it is that which, if we have lived with it, brings the experience of our lives ready to our hand. If the things but make impression enough on you, you will not forget them; and thus, as you go through life, your store of experience becomes greater, richer, more and more available. But to this end you must cultivate attention - the art of seeing, the art of listening, you needn’t trouble about memory, that will take care of itself; but you must learn to live in the true sense. To pay attention is to live, and to live is to pay attention; and, hear in your mind most of all, that your spiritual nature is but a higher faculty of seeing and listening - a fiver, nobler way of paying attention.
夕方、ポストを覗くと、POST NLから理解できない関税の請求の手紙が届いていた。とにかく支払いを済ませないと受け取りできないとのことだったので、支払いを済ませる。おそらく母に買ってもらったフック10個なのだが、総額1,000円くらいのものに18ユーロもの関税を支払う必要があるのは理解できない。文句ばかり言っていても、ここでの生活はしないといけないし、これからも続くので、文句なんてもういう時間さえもくだらないと思っている。
寝る前にここで誰も生活していないかのような風景にするのが好きなのだが、家の整理をして寝る。家具やコップや全てのものもきちんと自分の居場所で寝させてあげないと翌日に疲れを溜めていくことになるのだから。

2024.4.19

 聖子ちゃんの友人のぞみさんに会う。新しい土地で生きることを素直な心の上に実践しているような方で、そう感じる時点でぼくの心がそれほど良い状態でないことを表すようだった。
新しい土地で生きるということは、ここで起きる全てのことに心を開き積極的に関わり、その中で何かに憧れたり落ち込んだり、時に自分のアイデンティティとか無駄なプライドとかを守ろうとしたり、少し強く見せたりするようなことなのだ。
今日ふと考えたこのようなことは、ぼくには、そしておそらく聖子ちゃんにも、大きく欠落しいているものだと思った。
Agnes Martinの言葉「if nobody worked for life there would not be any life to live

2024.4.17

英文の校正をしてもらったのだが、細かい部分の修正がとても多い。ぼくが英語が十分にできるわけではないことと、ぼく自身が持つ音やリズムなどの言語感覚と語彙力とで文章を書いているので、まあ当たり前。単純にルールを知らない部分もある。理解が難しい部分があると言われた箇所もあった。そもそも言葉の持つ意味がどのくらい曖昧なのか、意味がどのくらい正確なのか、ぼくにも正直わからないけれど、音やリズムが人に何かを伝えないのだとしたら人類の進化を否定しているということにもなるだろう。音やリズムが言語となり、言語による社会が発展してきたが、その中でも人々は音やリズムに憧れるように歌を歌う。情報としての言葉ではなく、もっと人々にとってエッセンシャルな価値のある言葉を使いたい。写真集や作品集作りにおいてもそうだ、ぼくは情報としての本よりも、本自体が言葉以上を語る写真集を作りたいと思っている。もっと簡単にいえば、ハウトゥ本よりも小説からしか学べないもものがあるということだ。そんなことを考えながら、自分の英文校正について細かく考えていると頭がいっぱいになり昼寝してしまう。最近、あまりにも家を出ていないので、モヤモヤとする感情が溜まってきた。家で音楽を聴きながら踊って少し発散。誰にも家を出てはいけないとは言われていない。

2024.4.16

朝と夕方にミーティングが2件あって、やはり1日に2つもミーティングを入れると仕事にならない。自分の集中力の問題。少しずつ学ぶしかない、ぼくは人より効率も悪いし、自分の行動や考えに納得するのに時間がかかるので、本当に自分自身も周りにいる人たちもすっきりしないのだが、ぼくはどうしろというのだろうか。もう35年もこうやって生きてきてしまったのだ。

2024.4.15

結婚記念日なので、夕方の陽を借りてドラマティックな表情を見せるBowieでドリンク。高級レストランに行くことも、ホテルのバーに行くようなこともしなかったけれど、時間ばかりある日々の中で一緒に過ごせているのは素晴らしいことなのではないか。多くのカップルや夫婦が一緒の時間を過ごすことができない生活をしたり、それを好んだりしているわけだから。
時間ばかりある日々を過ごしていると、何もしなくてもカレンダーや時計は進み続けるし、違うようだが同じように流れていくような日々の中で、繰り返され続ける日々にぼくたちはせかされ、追われたり追いかけたりしているように感じる。そんな日々の中で、朝起きる時間を決めて、仕事する時間を決めて、できるだけ自分のリズムを作ろうと思っているのだが、世界で起きる心が締め付けられるようなニュース、日常に起きた些細な揉め事に惑わされたりもして、そのリズムもまた狂ってくる。時に日本人が世界大会で優勝したみたいなニュースに希望を抱いたりもする。遠慮会釈なくぼくの中にもカレンダーの時間も染み込んでくる。そんなものにとらわれず、自分の人生の歩みを基準に計りながら、時々こんな風に記念日を目印にして、ものごとを考えていく方がずっとはるかに広い心で歩いていけるような気がするのだ。